島内裕子さんの案内『徒然草』も、いよいよ終盤。
島内裕子校訂・訳「徒然草」(ちくま学芸文庫)の
ご自身による解説には、
『 本書は、徒然草を最初から最後まで、ぜひとも通読
してほしいという、強い願いから出発している。 』(p487)
とあります。ガイドの案内を聞きながら、
ようやく最後の方へとさしかかりました。
第235段の島内さんの『評』の最後には、こうありました。
「 心にうつりゆく由無し事の種は尽きることがなくとも、
徒然草の執筆の終幕は、近い。残りあと、八段である。 」(p448)
案内が「もうすぐ終わりますよ」と語る。
ここの、第235段の『評』には、
「 心について、正面から思索を凝らした、注目すべき段である。 」
とあります。この段を、島内裕子さんの訳で全文引用。
「 住む人のいる家には、無関係な人が、自由に侵入することはない。
しかし、住む人がいない家には、通行人がむやみに立ち入り、
狐や梟(ふくろう)などといった動物も、
人の気配がないのをよいことに、平気で侵入しては住み着き、
木霊(こだま)などという怪異のものも顕れるのだ。
また、鏡には、特定の色も形もないので、どんなものでも、
鏡の前に立てば、色や形が、映像として映し出される。
もし、鏡に何か色が付いていたり、凸凹した形だったら、
物の姿があるがままに映ることはないだろう。
空っぽの空間には、いろいろなものが入る。私たちの心に、
さまざまな思いが、とりとめもなくやって来て浮かぶのは、
しっかりとした心というものがないからであろうか。
もし、何かすでに心の中を占めている思いがあったなら、
胸の中に、こんなにもたくさんの雑念は入り込まないだろうに。」
( p446~447 )
ご自身の訳を補強するように島内さんの『評』がつづきます。
「心について、正面から思索を凝らした、注目すべき段である。
心とは、どこから来てどこに行くとも知れぬ雑念が、次々と通り過ぎたり、
下手をすると怪しげな想念が住みついたりしてしまう、空ろな場所である。
また、鏡の前では、何ものであれ映らない物はないように、
心には、どんな異形な想念も映し出され、心はそれを拒否できない。
茫漠としてとりとめもなく、統べるものがそもそもないもの。
それが心というものの実体、いや、『自分の心』の実体だった。
・・・・・・
このことは、徒然草をここまで書き継いで来て、
兼好が初めてしっかりと自らの手に摑んだ、疑いようのない事実であり、
これを置いて他に自分という存在もない。なぜなら、
自分の心に『うつりゆく由無し事』があるからこそ、
それらを容れる『自分の心』の実在が証明されるのだから。
思えば、徒然草の冒頭で、まず書かれていたのは、
心の実体を探究したいということであった。
この段で、自分の心の実体を摑んだ兼好にとって、
徒然草を執筆する意味と意義は、ほぼ明らかになったと見てよい。
心にうつりゆく由無し事の種は尽きることがなくとも、
徒然草の執筆の終幕は、近い。残りあと、八段である。 」
うん。各段はつながっておりました。次の、
第236段は、滑稽な話が呼び寄せられております。
第236段の、島内さん『評』を引用しておきます。
第235段とのつながりに、踏み込んでおりました。
「・・・滑稽な話(第236段)であるが、兼好の筆致は、
この上人の言動を愚かしい笑い話として、書き留めたとは見えない。
上人の思い込みは、粗忽だが、そこに何がしかの純粋で無邪気な、
疑うことを知らない浮世離れした無垢な人柄を感じ取り、
それを尊んだのではないだろうか。
人間の心は多様な働きをする。前の段(第235段)で、
心をめぐって深く思索した直後に、ふっと緊張がほどけて
一息ついたことが、ユーモラスな話を呼び寄せたのである。 」
( p450 )
はい。お上りさんよろしく、キョロキョロしながら、
先達のガイドさんのあとを、説明を聞き辿りました。
ここで、兼好は振り向き語りはじめるかもしれませんね。
私の心の物語は、ここまで来ました。
君自身の物語は、どこまで来ましたか。