和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『心』と、徒然草。

2022-07-08 | 古典
島内裕子さんの案内『徒然草』も、いよいよ終盤。

島内裕子校訂・訳「徒然草」(ちくま学芸文庫)の
ご自身による解説には、

『 本書は、徒然草を最初から最後まで、ぜひとも通読
  してほしいという、強い願いから出発している。  』(p487)

とあります。ガイドの案内を聞きながら、
ようやく最後の方へとさしかかりました。

第235段の島内さんの『評』の最後には、こうありました。

「 心にうつりゆく由無し事の種は尽きることがなくとも、
  徒然草の執筆の終幕は、近い。残りあと、八段である。 」(p448)

案内が「もうすぐ終わりますよ」と語る。
ここの、第235段の『評』には、

「 心について、正面から思索を凝らした、注目すべき段である。 」

とあります。この段を、島内裕子さんの訳で全文引用。


「 住む人のいる家には、無関係な人が、自由に侵入することはない。
  しかし、住む人がいない家には、通行人がむやみに立ち入り、
  狐や梟(ふくろう)などといった動物も、
  人の気配がないのをよいことに、平気で侵入しては住み着き、
  木霊(こだま)などという怪異のものも顕れるのだ。

  また、鏡には、特定の色も形もないので、どんなものでも、
  鏡の前に立てば、色や形が、映像として映し出される。
  もし、鏡に何か色が付いていたり、凸凹した形だったら、
  物の姿があるがままに映ることはないだろう。

  空っぽの空間には、いろいろなものが入る。私たちの心に、
  さまざまな思いが、とりとめもなくやって来て浮かぶのは、
  しっかりとした心というものがないからであろうか。

  もし、何かすでに心の中を占めている思いがあったなら、
  胸の中に、こんなにもたくさんの雑念は入り込まないだろうに。」
                      ( p446~447 )

ご自身の訳を補強するように島内さんの『評』がつづきます。

「心について、正面から思索を凝らした、注目すべき段である。

 心とは、どこから来てどこに行くとも知れぬ雑念が、次々と通り過ぎたり、
 下手をすると怪しげな想念が住みついたりしてしまう、空ろな場所である。
 
 また、鏡の前では、何ものであれ映らない物はないように、
 心には、どんな異形な想念も映し出され、心はそれを拒否できない。
 
 茫漠としてとりとめもなく、統べるものがそもそもないもの。
 それが心というものの実体、いや、『自分の心』の実体だった。

 ・・・・・・

 このことは、徒然草をここまで書き継いで来て、
 兼好が初めてしっかりと自らの手に摑んだ、疑いようのない事実であり、
 これを置いて他に自分という存在もない。なぜなら、
 自分の心に『うつりゆく由無し事』があるからこそ、
 それらを容れる『自分の心』の実在が証明されるのだから。

 思えば、徒然草の冒頭で、まず書かれていたのは、
 心の実体を探究したいということであった。

 この段で、自分の心の実体を摑んだ兼好にとって、
 徒然草を執筆する意味と意義は、ほぼ明らかになったと見てよい。

 心にうつりゆく由無し事の種は尽きることがなくとも、
 徒然草の執筆の終幕は、近い。残りあと、八段である。  」


うん。各段はつながっておりました。次の、
第236段は、滑稽な話が呼び寄せられております。
第236段の、島内さん『評』を引用しておきます。
第235段とのつながりに、踏み込んでおりました。

「・・・滑稽な話(第236段)であるが、兼好の筆致は、
 この上人の言動を愚かしい笑い話として、書き留めたとは見えない。
 上人の思い込みは、粗忽だが、そこに何がしかの純粋で無邪気な、
 疑うことを知らない浮世離れした無垢な人柄を感じ取り、
 それを尊んだのではないだろうか。

 人間の心は多様な働きをする。前の段(第235段)で、
 心をめぐって深く思索した直後に、ふっと緊張がほどけて
 一息ついたことが、ユーモラスな話を呼び寄せたのである。 」
                      ( p450 )

はい。お上りさんよろしく、キョロキョロしながら、
先達のガイドさんのあとを、説明を聞き辿りました。

ここで、兼好は振り向き語りはじめるかもしれませんね。

  私の心の物語は、ここまで来ました。
  君自身の物語は、どこまで来ましたか。 

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吉田兼好の宗派?

2022-07-08 | 古典
谷沢永一・渡部昇一『平成徒然談義』(2009年)を
パラパラとめくって、面白そうな箇所を引用。

徒然草第52段を谷沢さんは語ります。

「 旅の話ということで、52段を見てみましょうか。
 『徒然草』には仁和寺がよく出てくるのですが、これは
  仁和寺の法師が石清水八幡宮に初めて参詣した話です。
  ・・・・・

  私はこの段の最後にある『先達』という言葉を、
 『チチェローネ』と読むようにしています。

  歴史家のブルクハルトが『チチェローネ』というタイトルで
  本を書いていて、これはローマの旧跡を案内するガイドの呼称です。
  ローマを深く知るのなら、この人たちを雇ってまわったほうがいい。
  ちょっとしたことでも経験者、案内人の知識、知恵を乞う姿勢は
  大事でしょう。 」( p31~32 )

うん。ここからどういうわけか大学の概論講義へと話が弾んでいました。

それはそうと、兼好は何宗だったのか?
ここも谷沢さんの語りから引用します。

「 『徒然草』の作者である吉田兼好のいた時代は、
  まさに天台宗の全盛期でした。鎌倉新仏教を築いた人たちは、 
  当時の日本における最高の図書館であり大学だった比叡山で、
  学問をしました。ところが当時は、いかに勉強して仏教の教えを
  頭に入れても、身分が卑しければ上に上がることは出来ない。

  藤原北家の系統に生まれ、一番上の兄貴がお公家さんとして
  太政大臣になると、弟は天台座主になる。

  それを悟って、みんな山を下りたわけです。つまり、
  一遍、法然、親鸞という系列、いわゆる鎌倉新仏教は、
  当時は支配的なものではなく、むしろ異端の説の類でした。

  そして、兼好も仏教徒としては天台宗だったのです。

  にもかかわらず、次の段(第39段)で法然上人の名を
  出してくるのが、兼好の兼好たる所以でしょう。

  兼好は仏教の宗派に対して中立的な人で、
  自分のよしとするものは、遠慮会釈なく取り上げたのです。

  『歎異抄』のなかで決め手になる言葉は
  『法然がこう、おっしゃった』と親鸞が言っている場面が多い。
  しかし、そもそも
  念仏を唱えることを提唱したのは、法然なのですから。  」
                 ( p103~105 )

このあとに渡部さんは続けます。

 「・・・・・この超越している感じが法然らしいし、
  だからこそ法然は偉いと思いますね。
  法然のことを何も知らなくても、ここだけ読んだだけで、
  法然の偉さがわかります。
  その本質をつまみ出した、兼好の目もまた鋭い。 」(p105)

はい。第39段の原文を、あらためて引用したくなります。

  或る人、法然上人に
  『念仏の時、眠(ねぶ)りに侵されて、行を怠り侍る事、
   いかがして、この障(さは)りを止(や)め侍(はべ)らん』
   と申しければ、

  『目の醒(さ)めたらん程、念仏し給へ』

  と答へられたりける、いと尊かりけり。
  また、

  『往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり』

  と言われけり。これも尊し。
  また、

  『疑ひながらも念仏すれば、往生す』

  とも言はれけり。これもまた、尊し。


気になったのは、徒然草第59段に及んだ際に
谷沢さんは、こう指摘しておりました。

「 『老いたる親、いときなき子』云々は
  道元の『正法眼蔵随聞記』から引いています。
  道元の言葉が出てくるのは、たしか、
  ここだけではないかと思います。    」(p112)

兼好の時代の宗教といわれてもなあ、
私にはチンプンカンプンなのですが、
チチェローネ・谷沢さんの話には惹かれます。


コメント (4)
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