杉本秀太郎著「太田垣蓮月」(小沢書店・昭和57年)をひらく。
最後に「淡交社版あとがき」がありました。そこに
『蓮月が非常に好きだったので、私はこの本を書いた』(p242)
とある。
本の最初には
「 蓮月は、求められるままに手作りのきびしょ、すなわち
煎茶用の急須、徳利、盃、鉢、皿、茶碗、水指などに
自詠の歌を彫りつけ、また乞われるままにおびただしい
短冊を書いた・・・ 」( p10 )
うん。『きびしょ』って何だが、気になる。
それを説明した箇所もありました。
「・・・粟田焼に煎茶趣味が行きわたっていた実況を伝える。
蒹葭堂好みのこんろとは、煎茶でいう凉爐である。
また、きうす(急須)は蒹葭堂(けんかどう)ごのみの
言い方ではきびしょということになる。
『蒹葭堂雑録』巻一に記すところでは、
きびしょというのは儒家、篆刻家、古器鑑定家、
また書家として知られた高芙蓉(こうふよう)が、
煎茶愛好家としてその形態を考案し、
親友の池大雅にはからったときに急須に附した別字の異称で、
煎茶の普及につれて、この呼び名は京、大阪から出て
北越、九州にもひろまった。語音のめずらしさが
文人趣味によく似あったこともあるだろう。・・・・」(~p108)
中根香亭(1839~1913年)の文も引用されておりました。
「文久年間に、私は京都に半年ほど居たことがある。
ある日、清水坂の陶器家に立ち寄って、急須を買った。
大きさは、にぎりこぶしほど。和歌が一種、
彫りつけてあり、蓮月という署名がある。
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ついに岡崎に隠れ暮した。埴(はに)をこねて茶器を作り、
これで生計を立てた。晩年にはいよいよ世塵をいとい、
さらに遠くの西賀茂に隠れ住んだ。
明治8年12月3日終焉。行年八十五歳。・・ 」( p82~83 )
どうして蓮月が「埴をこねて茶器を」つくるようになったのかも
興味深く、その箇所も引用してみることに
「岡崎村に移った蓮月が埴細工に手を染めたのは、
太田垣家の家督を継ぎ、同時に知恩院の譜代職も
継いでいる養子古敦にもたれかからないためであった。
蓮月は譜代というものが知恩院から給される微禄では、
いかに暮らしにゆとりがないかをよく承知していた。
古敦はすでに妻帯しているが子はなかった。・・・
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きっかけは、粟田口に住んでいる一老婦から、
きびしょ作りをすすめられたことだった。
蓮月という一人の性格の力で、
当時の時代趣味であった煎茶というものを媒体として、
遭遇したものがあった。土と和歌と書という三つのものである。
・・・・土と歌と書は、もはや偶然に集合したわけでなくて、
これは蓮月の創意工夫によることであった。
自詠の和歌をしなやかな、細くしかも強靭な書体によって、
自作の茶器、花瓶、酒器あるいは土瓶、片口、皿のごとき
日用雑器に釘彫りにする蓮月の手仕事が、
京焼の世界に波紋を投ずることになった。 」( p98~99 )
うん。最後に、蓮月の花瓶の特色を語られている箇所も引用。
「用いられている土は、京都の東山一帯、岩倉から深草にかけて、
また西山にも産するごくありふれた埴土である。・・・・・・
蓮月はいつも借り窯であった。それも清水の登り窯の
最上端の片隅をちょっと使わせてもらって焼いたのだろう。
そして花瓶の活け口をとおして外から見透かせる
内がわだけにかけられた薄い青磁釉が、わずかにつやを放っている。
目のこまかく、ねばりもある埴土なので、さほどざらついた感じはないが、
それでもこれはすべすべした釉がけとは趣を異にした花瓶である。
このわびたるところは、色絵付の御室焼、粟田焼、清水焼によって
実現された、いわゆる『きれいさび』とは相容れないものである。」
( p102 )
ちなみに、この本の最初には、短冊などの写真があり、
写真の一枚に、『蓮月焼 へちま花瓶』がありました。