昨日は、晴れたので、主なき家の草取り。
午前中3時間でおしまい。帰ってビール。
意外だったのは、夢でブログ更新をしてた。
実際は、寝てただけなのにね。
佐藤忠良自伝「つぶれた帽子」(中公文庫)を読んでみる。
写真入りでパラパラとページをめくれそれだけでも楽しい。
「昭和56年ロダン美術館での展示」という写真の次ページに
は、こんな言葉がありました。
「・・・初めての海外での個展は割合評価されたようだが、
スポーツ競技でみんなの力が衰えているときに優勝したからといって、
強いことにはならないのと同じだと思う。
いろいろな国を回ってみたが、昔の銅像などルネサンス以降のものでも、
実にうまく作っている。それに比べ今のものは歩いてみたどこの国でも、
ひどいものが建っている。日本でも事情は同じで、
具象彫刻は世界的に疲弊しているように見える。
コツコツやってきたことが、少しは底光りして見えたのかなと
思わないでもないが、やはり周りが衰えてまずくなってしまった
からだというのが実感であった。」 ( p166 )
うん。それはそうと、文庫のはじまりに16ページにわたり写真。
気になったのは『オリエ』(昭和24年)と『たつろう』(昭和25年)。
ふたつとも顔の彫刻でした。
文庫の最後には年譜もあります。
1940(昭和15)年28歳 4月、吉田照と結婚
1941(昭和16)年29歳 長男達郎誕生。
1943(昭和18)年31歳 長女オリエ誕生。
1944(昭和19)年32歳 7月、召集を受け入隊。
1945(昭和20)年33歳 終戦を知らず約一ヵ月間逃避行ののち
ソ連軍に投降、三年間シベリア・・
収容所に抑留される。
1948(昭和23)年36歳 夏、舞鶴港に復員。・・・
この自伝には、復員の際の様子を書いたオリエさんの文章が
そのままに載せてありました。それを引用。
「父の友人と私達家族が、
白い大きな布に『佐藤忠良』と書いた幟を持ち、迎えに出たのが品川駅。
長い列車の着いたホームは、迎えの人の名を叫びながら右往左往する人達
でごったがえしていた。
私は誰かの肩車に乗って・・・恐ろしい所へ来てしまったと思っていた。
ドンという感じを背中に受け私を乗せた人が振り返った時、そこに、
黄色い妙にむくんだ顔の男がニッと笑って立っていた。
『お父さんよ、お父さんよ』母が何度も云った。
もう少しましな人が現れると思っていた私は、
がっかりするというより、変な気がした。
大人が盛大に迎える騒ぎがわからなかった。
母の陰から何度も盗み見ては、
この黄色くむくんだ男は何だろうと思った。
二才年上の兄は、この人を覚えていたらしく、
家への帰り道、手をつないで歩いた。
その頃、私達が住んでいた千葉の母の実家は
女ばかりの大家族だったが、広い部屋の真中に
座布団を敷いてすわったこの男は、随分とえらそうに見えた。
『わしは、わしは!』と自分のことを云い、猛烈に喋っている。
私はいきなり近寄って、座布団を引っ張り叫んだ。
『 わしさんキライ! 早く帰れ! 帰れ 』
皆んなどっと笑った。私は泣いた。
いつやめていいか分からず、大分長く泣いた 」 ( p109~110 )
オリエさんの高校卒業まぎわのことも自伝にはでてくる。
「ある日、近所の朝倉摂女史がオリエと一緒に私のところへきて、
オリエを役者にしなさいとの膝づめ談判である。高校卒業の間際であった。
・・・
当時俳優座がやっていた俳優座養成所へ、13期生として通うことになった。
養成所時代、一つ二つコマーシャルの話があったようだったが、
舞台も満足に踏めないさきに、コマーシャルに出るようになってはいけない
と思ってお断りさせたことがあった。
彼女も、今もってお話があっても、まだ一度もそれには顔を出さないで
くれている。・・・ 」( p153~154 )
文庫解説の、酒井忠康氏の文中にも、
亡くなる前の佐藤忠良と佐藤オリエとの会話が引用されている。
あらためて、文庫のはじまりの写真をめくって、
『たつろう』と『オリエ』の彫刻を見てしまう。