だいたい私は、本文が読めずに、
解説や、書評で満足するタイプ。
文庫の古本なのですが、
中国古典選12「荘子 内篇」福永光司(朝日新聞社)を
本棚からとりだしてくる。このあとがきは3ページ。
はい。『あとがき』を引用します。はじまりは
「私が中国哲学に興味をもち、この学問を専攻しようと決心したのは、
『荘子』という書物のあることを識ったからであった。・・・ 」
このあとがきは、「昭和30年10月1日洛北北白川の寓居にて」
と最後に記されております。
あとがきに、戦争がでてきておりました。
「 私は昭和17年の9月に大学を卒業したが、
卒業と同時に兵隊に徴集され、約5ヵ年間の
軍隊生活を私の青春として過ごした。・・・・
私は今思い出しても恥ずかしいほどの蒼ざめた
恐怖を輸送船に乗せて内地を離れたが、その時、
私が囊底(のうてい)に携えて海を渡った書物は、
『万葉集』と、ケルケゴールの『死に至る病』と、
プラトンの『パイドン』と、この『荘子』であった。
・・・・・・
戦場の炸裂する砲弾のうなりと戦慄する精神の狂躁とは、
私の底浅い理解とともに、これらの叡智と抒情とを、
空しい活字の羅列に引き戻してしまった。
私は戦場の暗い石油ランプの下で、時おり、
ただ『荘子』をひもときながら、私の心の弱さを、
その逞しい悟達のなかで励ました。
明日知れぬ戦場の生活で、『荘子』は
私の慰めの書であったのである。 」
「 終戦に一年半おくれて再び内地の土を踏んだ私・・・
もう一度学究として・・歩こうと決意し・・再び郷里を
離れるという私を見送って、年老いた父が田舎の小さな
駅の冬空のもとに淋しく佇んでいた。・・・・・
私の無気力と怠惰を嘲笑したのは、昭和26年5月19日のことであった。
変わり果てた父の屍の手を取りながら、私は溢れ落ちる涙をぬぐった。
・・・黄色く熟れた麦の穂波のなかを火葬場の骨拾いから帰りながら、
私は荘子の『笑い』のなかに彼の悲しみを考えてみた。・・・
私にとって、『荘子』はみじめさのなかで
笑うことを教えてくれる書物であった。・・・・・
私のこのような『荘子』の理解が、
十全に正しいという自信は、もとよりない。
しかし私にとって、私の理解した『荘子』を説明する以外に、
いかなる方法があり得るというのであろうか。・・・・・
私としては、私のような『荘子』の理解の仕方もあるということを、
この書を読まれる方々に理解していただければ、それで本望なのである。
そしてもし、死者というものに、生者の気持が通じるものならば、
私は歿(な)くなった父にこの拙い著作を、せめてものお詫びとして、
ささげたいと思う。 」 ( ~p343 )
うん。以前にこの「あとがき」だけを読んだのですが、
満腹感で、本文を読まずじまい。本棚に並んでました。