老子を読もうとするのですが、
初めてで、楽しめるかどうか。
身近へと引き寄せるにかぎる。
まど・みちお『風景詩集』(かど創房・昭和54年)。そこに、
何だか呪文のような詩「もう すんだとすれば」がありました。
わかったような、わからない詩で一読印象に残っておりました。
もう すんだとすれば まど・みちお
もうすんだとすれば これからなのだ
あんらくなことが 苦しいのだ
暗いからこそ 明るいのだ
なんにも無いから すべてが有るのだ
見ているのは 見ていないのだ
分かっているのは 分かっていないのだ
押されているので 押しているのだ
落ちていきながら 昇っていくのだ
遅れすぎて 進んでいるのだ
はい。福永光司著「老子」(朝日選書1009)。
帯つきできれいな一冊が、古本でやすかった。
それはそうと、はじめから読む気にはなれず、
パラパラと、第41章をひらいてみる。
私に、原文はチンプンカンプン福永さんの訳。
すぐれた人間は道を聞くと、努力してそれを実現するが、
中等の人間は道を聞くと、半信半疑の態度をとり、
下等な人間は道を聞くと、てんで馬鹿にして笑いとばす。
彼らに笑いとばされるぐらいでなければ、本当の真理とはいえないのだ。
だから、こんな格言がある。
本当に明らかな道は、一見すると暗いように見え、
前に進む道は、一見、後に退くように見え、
平(たいら)かな道は、一見、平かでないように見える。
最上の徳は谷間のように虚しく見え、
真に潔白なものは、一見、うすよごれて見え、
真に広大な徳は、一見、足りないように見える。
確固不抜の徳は、一見、かりそめのもののように見え、
真に質実な徳は、一見、無節操なように見え、
この上なく大きな四角は、隅(かど)というものをもたない。
真に偉大な人物は人よりも大成するのが晩(おそ)く、
この上なく大きな音は、かえってその声が耳にかそけく、
至大の象(かたち)をもつものは、かえってその形が目にうつらない。
そして、これらの言葉からも知られるように、
道は隠れて形が見えず、人間の言葉では名づけようのないものなのだ。
( p284~285 福永光司「老子」 )
老子の言葉は、昔から連綿とつながり、
その波打ち際には、まど・みちおの詩。
心してお気楽に読むすすめますように。