島内裕子さんは指摘しております。
「 徒然草には無名の人間の言動をめぐる章段は多い。
木登り名人の言葉(第109段)や、
故実に通暁していた又五郎(第102段)や、
宇治の里人たちの水車技術などの話(第51段)は、
どれも短い話であるが、彼らが現実をよりよく生きるために
自然と身についた能力や技術・知識が発揮され、
人間の真実がよく描き留められている。
そのような視点があるからこそ徒然草は、
時代を越えた普遍性を持つのである。 」
( p28 「徒然草文化圏の生成と展開」 )
そういえば、杉本秀太郎の「神遊び 祇園祭について」でした。
祇園祭のはじまりの、風流を着想した人へと、杉本氏の考察が及びます。
そこいらを、引用しておくことに。
「 風流の着想をした人が、手ぶら徒手空拳で、
そういう着想を得ただろか。
ここには、だれかの手が介入している。その手がなければ、
着想が目にみえる形を帯びることのないような手、
それは職人の手でなければならない。町衆と職人とが協同するとき、
物知りは物好きにと変態をとげる。・・・・・・・
物好きが、いかに冒険好きで眩暈を楽しむものか・・」
この実例として杉本氏は『浄妙山という山』のことを語ります。
宇治川の合戦での宇治橋での一場面を人形にした山なのですが、
具体的な説明の箇所はカットゆきます。その次でした。
「浄妙山を例にした序でに、壮大な染織展覧会というべき
祇園祭の一端を示す実例も、この山から引いておこう。
山鉾には、見送(みおくり)と呼ばれている装飾がある。
巡行のとき、目前をすぎる山鉾を名ごり惜しげに見送ると、
かならず人目に入る後方の装飾布がある。
これの反対がわ、前方の装飾布は前掛(まえがけ)とよばれるが、
浄妙山の見送と前掛は、本山善右衛門という人の作品である。
善右衛門は浄妙山の町内に住んでいた綴織の職人である。
もとより・・無名の職人だ。そしてこの人は三年の歳月をついやして、
自町の風流のために打ちこんだのである。・・・
素山と号した善右衛門は、ほかの山にはない装飾をこさえる
という念願にはげまされて、刻苦して仕上げたということだが、
物好きな神遊びの骨頂がここにある・・・・
そしてこういう物好きの実例は、
すべての山鉾にかならず一つならず見出されるものなのだ。
織布の職人のほかに、彫金師にも、画師にも、大工にも、
祇園祭にかかわるこの種の逸事はずいぶん多い。・・・・」
うん。杉本氏の文の、その最後からも引用しておきます。
「・・・・祇園祭の山鉾の構造は、一口でいえば
『木造組立式、枘差(ほぞさ)し、筋違入、縄がらみ』ともいうべきもので、
『全体的に変形の余裕を残した柔らかな構造』なのだ。
神遊びに、裏おもてがあってはまずい。山鉾は、すべての
装飾をほどこされた祭礼の日の晴れ姿だけが美しいわけではない。
組立の大工が縄がらみにした木の骨組は、縄目の揃え方、からみの締め方
まで、みごとにととのった一糸乱れぬ縄扱いがほどこされている・・
スサノオノミコトは、祭にたずさわってきた物好きな人びとにとって、
けっして無縁のカミだったわけではない。
職人の技芸にとって、カミとは、きょうこれからの仕事そのものであり、
あすの仕事の出来映えである。
本山善右衛門が、かがり織の仕事にとりかかるとき、
かならず柏手を打って、スサノオノミコトに偶然の幸を祈ったことを、
・・すこしのうたがいもないことだと思っている。 」
はい。杉本秀太郎の「神遊び 祇園祭について」は
短いのですが、読みごたえがありました。
ちょうど、7月にかけて読めよかったです。