昨日は、思いったって出かける場所がありました。
もどってきたらもうブログの更新をせず仕舞い(笑)。
一昨日、古本が届きました。「大村はま白寿記念文集」とあり、
題が「かけがえなき この教室に集う」( 小学館・2004年 )。
この目次をめくっていると、藤原正彦の3ぺージの短文がある。
はい。これを読んで、私はもう満腹。
藤原正彦氏の短文は、内容がこれでもかと、詰まっていて、
これは大胆カットしなければ、ここには引用できないなあ。
ここでは、『 作文 』に関連する箇所とりあげてみます。
作文といえば、大村はま先生は、講演で
信州の教育風土を語った中にこんな場面があったことが
あらためて思い浮かびます。まずはそこから引用はじめ。
「・・とうとう私は、職員室のまん中で20幾人かいる先生がたの
まん中で――校長先生ももちろんおいでになっていました――
『 作文の研究じゃいけないんですか! 』と、大声でどなってしまいました。」
( p20 大村はま「新編 教えるということ」ちくま学芸文庫 )
もどって、藤原正彦氏の短文に、『作文』が登場しておりました。
場面は、正彦氏と大村はまの対談に関連してはじまっております。
「 母(藤原てい)が県立諏訪高女に12歳で入学したのは昭和6年だから、
大村はま先生は25歳だったはずである。 」 (p322)
正彦氏の文に、母ていさんの『作文』の話題がありました。
「 先生が本気で指導されていたことは、
母の作文までよく覚えていることからも分かった。
寄宿舎住まいの母が、週末に両親の元に帰る際には、
祖父が途中まで迎えに来ることになっていた。
早く着いた母が身を隠していると、祖父が
『 ていはどこだ、いねーか 』とあちこちを探し回る。
それが帰省の楽しみの一つだった、
などというエピソードを聞かせていただいた。
70年以上覚えているのだから、よほど真剣に
生徒の作文を読まれていたはずである。・・
このような・・作文指導と励ましがあったから、
後に母は『流れる星は生きている』を書く気になったのだろう。
母に刺激されて父(新田次郎)が書き始め、
両親の影響で私も書き始めたから、
我が家の文運はすべて大村はま先生の贈り物だったとも言える。 」
( p324 )
この藤原正彦氏の短文の最後には、小さい挿絵が載っていました。
遠くに山々が前後してあり、その前に林がひろがり一番手前には、
草原のような道を帽子をかぶって髪をなびかせて歩く女性がいる。
腕には白いものを抱え、諏訪の山々へ向き合い歩いているのです。
はい。正彦氏の短文に、思い当たる箇所があります。
そこも引用しておくことに。
「 現に、生徒の作文を抱えて歩いていたら、校長に
『 そんなものはストーブにくべてしまえ 』と
いわれたとうかがった。真意は
『 たとえ忙しくて作文をすべて読んでやれなくても、
ぜひ今のままどしどし書かせてくれ 』なのである。
手のかかる作文指導を続ける若い教師への
ねぎらいであり励ましである。
先生はこのように荒っぽく鍛えられたのだろうが、
諏訪人のこんな物言いには大分悩まされたと思う。
『 諏訪で育てられた 』と言われたのでうれしかった。
先生の度量の大きさであろう。 」( p323 )
うん。挿絵のそば、藤原正彦氏の文の最後も引用しておかなきゃ。
「 ・・・大村先生にお会いして、
教育界にもこのような独創的な人がいるのだ、
このような先生に日本は支えられていたのだ、
と感銘を受けた。
帰途、大村先生の薫陶の最下流に立っている
自分が誇らしかった。 」( p324 )
これだけ引用しても、引用したりない箇所が残ります。
藤原正彦氏の短文から、抜け出せない気分でおります。
はい。もうすこしこの短文のまわりをウロウロしてみます。
ということで、次のブログも、このウロウロがつづきます。
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