和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ともに髪の毛はごま塩で。

2022-05-22 | 詩歌
私家版の詞華集を編むとしたら、まずどれから。
そんなことを思っていたら、

桑原武夫の「杜甫の『贈衛八處士』について」
( 岩波新書「新唐詩選続篇」 p190~204 )
という杜甫の漢詩紹介文が思い浮かぶのでした。


「 中国の詩は漢字がむつかしいが、
  その意味を教えてもらえば、その内容の意味は
  必ずしもむつかしいものではない。
    ・・・・・・
  漢詩は洗練されてはいるが、
  私たちの日々の生活とつらなった、
  日常と同じ論理が支配する世界である。

  この詩は杜甫の詩の中ではわかり易いものの一つで、
  感情はごく自然な流露を示していると考えられる。  」
                     ( p194 )

こうして、詩の始まりから、各行を説明しておりました。
ここでは、行ごと①、②、③と並べて解説と原文を引用。

① 人間の生活で再会ということは困難だ。
② しかし、・・ややもすれば参と商とのようだという。
  參とはオリオン星座、商とはサソリ星座。
  前者は冬に見え、後者は夏のもの、
  つまり空に同時存在しないということから、
  会わないことの比喩につかう。
  これは杜甫の発明ではなく古くからの比喩である。

うん。原文は

① 人生不相見  人生相見ず
② 動如参與商  ややもすれば參(しん)と商との如し

原文をつづけます

③ 今夕復何夕  今夕また何の夕
④ 共此燈燭光  この燈燭の光を共にす
⑤ 少壮能幾時  少壮よく幾時
⑥ 鬢髪各已蒼  鬢髪(びんぱつ)おのおのすでに蒼(そう)
⑦ 訪舊半為鬼  舊を訪えば半ば鬼となる

桑原氏の解説をつづけます。

③ 今晩は何といういい晩だろう。
④ 旧友とこの燈燭の光を共にして、語りあかすのだ。
⑤ 青春といってもまたたくまで、
⑥ お互に頭髪は蒼(ゴマシオ)になっている。
⑦ 舊は旧友たち、鬼は死者のこと。
  昔の仲間を訪ねてみると、戦死や病死で
  半ばは故人となっている。この場合、
  舊は杜甫と衛八との共通の友だちを指している。

④の『此』についての指摘があります。

「 人生は萬人に共通な軽量的時間の連続であって、
  その上に乗って普通名詞がずっと並んでいると考えられる。

  ところが、その時間の流れの中に、
  『今、ここに、これが』という人生の有意義的瞬間がある。

  他人から見れば有意義でなくとも、
  当人には特別な瞬間と感じられるのであって、

  そのとき不定冠詞が指示形容詞に転ずるのである。
  『萬葉集』に

  『 わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも 』

  という歌がある。いささ群竹を風が吹いて渡る。綺麗だな、
  人生にこういう静寂な瞬間は、そうたんとあるものではない。

  自分の一生にも再び訪れるとは限らない。
  その気持が『この』という言葉に定着されている。 」(p198)

このあとに燈燭光への言及があり、そのあとでした。

「 その光を前にして旧友が対坐しているのである。
  そのかすかに温い光に照らされている二人が、
  
  お互の顔を見ると、『少壮よく幾時』、
  友情は変らぬが肉体は時間の影響を免れえず、
  
  ともに髪の毛はごま塩ではないか。
  燈光に照らされるとき白髪がキラッと光り、
  かえって昼間より強く印象づけられることがある。
  その感じもふまえられている。            」(p199)


うん。このまま詩後半の大事な箇所は
カットして、最後の箇所を引用します。

「・・この詩は旧友再会の喜びとはかなさを描き出している。
 その喜びとは具体的には何か、と問うならば、

 それは『燈燭光』『春韮』『黄粱』などという言葉に示される、
 平凡なそしてはかない日常的事実にすぎない。

 ただそうした平凡事が当事者にとって
 無限の美感を与え、大きな価値を生ずる瞬間がある。

 杜甫はこの詩でそうした瞬間の創造に
 見事に成功することによって、
 旧友再会の一典型をつくり出したのである。  」(p204)
  


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