吉田光邦の「茶の湯十二章」は雑誌に掲載されたもので、
どうやら四季の移り変わりを十二章にたとえているように読めます。
その最後に「一期一会」という3ページの文。
そのはじまりは
「歳末となる。人は誰しも流れてやまぬ時間、
自分のうちに消えてゆく人生をふりかえる時であろう。」
こうして幕末の井伊直弼の言葉が紹介されてゆきます。
私に興味深かったのは、
「彼(直弼)にとっては茶は楽しむものであり、その楽しみは
自分の現在のあり方をはっきりと見定めることによって
生まれてくるものであった。」
短文に繰り返される『 自分のあり方 』という言葉が印象に残ります。
「だがその交流は同時に自分のあり方の自覚でなければならなかった。」
「茶は自己の認識の道でもあったのである。」
( p167~169 「吉田光邦評論集Ⅱ 文化の手法」思文閣出版 )
この箇所を、呪文のように繰り返していると、
井伏鱒二の詩の2行が、思い浮かぶのでした。
『 われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ 』
こちらも短い詩に、この箇所が最初と最後に繰り返し登場します。
うん。ここは井伏鱒二の詩「逸題」の全文を引用しておわります。
逸題 井伏鱒二
今宵は仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ
春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ
酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿
ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ
われら先づ腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ
今宵は仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ
( p20~21 井伏鱒二「厄除け詩集」講談社文芸文庫 )
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