安房郡長大橋高四郎が、どこでいつ生まれたのかも
分からないままに、関東大震災の安房郡について
語っているのですが、大橋氏について見逃せない
そんな資料としての、貴島憲氏の回顧があります。
「 千葉県立安房農学校 創立五十周年記念誌 」 (昭和50年発行)
「学校創立の経過」に、安房郡長が登場しております。
それはそれとして、ここには 貴島憲の「五週年の回顧」を引用。
「 職員中一番はじめからゐるといので此題を課せられた。
病中物を考へるに堪へない。聊か個人的思い出を物して責をふさぐ。
大正11年の春、時の安房郡長の大橋さんの電報で、
私ははじめて北条の郡役所にやって来た、
そこが安房農業水産学校の創立事務所になっていた。
郡役所の玄関の前の大きな辛夷が一ぱいに花をつけていたから
3月の中旬の事であったであろう。
そこで大橋さんから学校に関して色々なお話を承った。
何でも此の新しい学校は、今度新に文部省で制定された
五ヶ年制実業学校として、全国に率先して創立されたもので、
其期する処は・・・・・・・・・
将来社会の中堅として役立つべき青年に直に基礎的な
普通教育を与へる学校、つまり農村的漁村的公民学校
というべきものでなければならないという事であった。
私はどうもこれはむつかしい仕事だと思った。
併し同時に大変大切な事で、もしそれが
全国に普及しよく運用されたなら、
かの豆粕程のデンマークをして世界に重きをなさしめた
国民高等学校のような働き、此行き詰った貧乏国家を
一新せしめるような働きをなさないものでもない、
吾々もまあ精々縁の下の力持を勤める事にしようと考へた。
大橋さんの清新溌溂たる精神に感服すると共に、
私自身も大に愉快になってきた。 ・・・・・ 」(p76)
直接に、安房郡長大橋高四郎氏に呼ばれ、
学校の先生にと、勧誘されている箇所なのですが、
ここには、大橋氏の謦咳に接して、それに対して、
感応する貴島氏の心が、直接に伝わる気がします。
ちなみに、『豆粕程のデンマーク』という言葉から、
私は、内村鑑三著「後世への最大遺物 デンマルク国の話」(岩波文庫)
を思い浮かべました。
ちなみに、この電報で呼び出されたのが大正11年の春。
貴島憲氏が、安房農学校の教諭になり、大正12年9月の関東大震災を
農学校の校舎で経験するのでした。その年にうちに
貴島氏は『 復興の歌 』をつくり、学生と共に歌いはじめます。
その歌詞を読むと、私には『 清新溌溂たる精神 』が
その歌詞からほとばしってくるような気になるのでした。
ということで、最後に復興の歌のはじまりの3番までを引用
( ちなみに、歌詞は8番まであります )
1 黒潮香る東海に 旭日(あさひ)さやかに射し昇る
ああ安房の国美(うま)し国 我等若きを歌わなん
2 大地振(ふる)いて新たなる 命四海に漲(みなぎり)ぬ
厳(おごそ)かなれや土の色 いざ固くとれ鍬(くわ)の柄(つか)
3 豊受の神笑みまして 光は畑に田に満ちぬ
大いなるかな農の徳 尊いかなや国の基
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