和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

講座参考本②

2024-07-07 | 安房
君塚文雄編「写真集 明治大正昭和 館山」(国書刊行会・昭和56年)。
正確な題名は「190・ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 館山」。

この本のp7に、大正11年8月発行の「北條館山市街図」が載っています。
はい。関東大震災の前年に出来ていた地図です。

写真を中心に構成されいるのですが、そこに付した君塚文雄氏の
短い解説文を読みながらだと、まるで館山の歴史絵巻をめくっている
ような気分になる不思議。

「関東大地震の災害と復興」(p102~p114)をひらき被害の写真を
見ていると、つい震災前の写真をもどってめくり直すことになります。
たとえば、震災で『倒壊した鶴ケ谷八幡神社の拝殿』(p110)と
その倒潰前の写真(p61)。
あるいは、『北条病院旧本館正面』(p43)の写真に付された解説は

「 北条病院の発祥は、北条村に払い下げられた郡立病院が、
  村立病院としてもたちいかず、角田佳一医師に払い下げらた
  ことに始まるといわれる。

  写真は明治44年に建てられた北条病院で、
  天然スレート葺きの瀟洒な建物であった。
  この建物は、大地震にも倒壊せず、
  昭和49年現在の鉄筋化の病院ができるまで
  使用されていた。 」

北條町では、震災当日倒潰しなかった北條病院に
負傷者が大勢運びこまれ、病院の庭にも重傷者や負傷者があふれたと
されております。そんな状況の中に建っていたのがこの写真だったのだと
あらためて見てしまいます。

p111には写真が3枚。
上から「倒壊した北条小学校校舎」。
中には「那古町における犠牲者の捜索活動」。
下には「曾呂村在郷軍人分会員の救援活動」。
ここは、一番下の写真解説を引用してみます。

「大震災の救援活動に、青年団、在郷軍人分会・消防団が
 果した奉仕活動は偉大なものがあった。
 9月1日の夜半、大橋郡長の要請に接して、
 平群・大山の青年団が2日未明、郡役所に駆けつけたに始まり、
 遂に全郡の町村青年団の総動員となった。
 写真は、在郷軍人分会旗を掲げた曾呂村在郷軍人及び青年団の
 救援活動で、場所は館山町である。 」

本書の最後にある君塚氏の文「館山市の近・現代を理解するために」 
には、館山市の砂丘列に対する歴史考察があって、地震との関連へと
つい思いを馳せることになります。

ちなみに、「安房災害史」(千葉県郷土史研究連絡協議会編・昭和59年)
に、君塚文雄氏の文が掲載されており、そこにはご自身の経験を記した
箇所がありました。そこも引用しておきます。

「 大正時代には、房総南部では11年(1922)4月26日の
  地震がやや大きいものであった。
  震源地は浦賀水道、規模はM6・9とされている。

  筆者も小学生の遠足の途次、那古町藤ノ木(館山市那古)通りで
  この地震に遭遇し、驚いて逃げまどった記憶が生々しい。
  当時の北条町(館山市北条)では煉瓦造りの煙突が折れ、
  県下全体で全壊家屋8戸、破損771戸の被害があったといわれる。
  
  続いて翌大正12年(1923)9月1日の関東大震災があった。・・・」
                          ( p174 )



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