和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

平川祐弘の『ものを書く目処(めど)』

2021-12-07 | 本棚並べ
月刊Hanada2020年6月号。
平川祐弘氏の連載「一比較研究者の自伝」。
その23回目の題は「煉獄にいたころ」でした。

うん。こんな箇所があったのでした。

「・・・1968年春に東大医学部で発火し、
たちまち全学、いや全国にひろがった大学紛争・・・

当時の過激派学生は口実を設けて
学生大会でストライキを一たび可決させるや、
後はもはや民主主義的手続きを尊重しない。

『もうやめよう』という気運が一般学生の間で盛り上がっても、
その時は学生大会を開かない、開いても真夜中過ぎまで
会議を引き延ばせば普通の学生は帰宅してしまう。
スト中止は可決させない。
だから無期限ストの様相を呈する。

・・・・しかし警察力の及ばない学内で、
一般学生が暴力学生に立ち向えるはずはない。

1968年の12月に研究室は過激派学生に占拠された。
助手の私はストライキに同調しない大学院生を連れて
八王子のセミナーハウスへ泊りに行った。」(p360)

ちなみに、平川祐弘氏は1969年の年賀状に
『神曲』の天国篇第13歌の一節を印刷して送ったとあります。
その年賀状の引用の最後だけを、さらに削って引用すると

「 真理を漁(あさ)ってそれを取る技(わざ)を心得ぬ者は、
  来た時と同様手ぶらで帰るわけにはゆかぬというので
  むやみと岸を離れたがるが、それが危険なのだ。 」

このつづきの
Hanada 2020年7月号連載24回目「私の変わりよう」も
ひきつづき読むと楽しめるのでした。
その楽しみは、どのようなものなのかというと、
思い浮かぶのが、こんな箇所なのでした。

それは、この連載9回目「モリス・ド・ゲラン」にありました。
この9回目の題名に触発されたようにして、書いておりました。

「私には、ものを書くについてある目処(めど)があった。
それは学術上の文章が、自分の日記や手紙の文章ほど
生き生きしないようなら、書くに値しない、という思いで、
その気持は学生時代も、教授時代も、退官後も変らない。」
(p317・2019年2月号)


う~ん。1931年生まれの平川祐弘の文章。
この連載に惹かれる魅力はさしあたって、
ここらあたりに、あると思えるのでした。



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