和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

とは思ひつつも。

2023-07-28 | 地震
以前に、教えてくれる方がいて、はじめて図書館でひらいたのが
「大正大震災の回顧と復興」上下巻(昭和8年8月・千葉県罹災救護会)でした。

その「編纂を終へて」安田亀一氏の文には

「・・・1000頁の予想が2500頁になった。
 この震災事情の記述の外に復興努力の跡をも振返ることが出来、
 さうして本年はここに大震災の十周年であり・・・  」とあります。

この「編纂を終へて」が印象に残っていたので、
ここであらためてひらいてみました。はじめのほうにこうあります。

「一体、本県(千葉県)で震災誌編纂のことは
 震災直後に定った方針であるらしい。

 が、種々の支障から今日まで之を完成してゐなかった。
 既に県の書類なども保存期間が切れて廃棄処分をしたものもあり、
 又やがてその期間に達するものもあって、時の経つと共に、

 だんだん資料が散逸し、折角貴重な文献が喪はれて行く処があるので、
 誰も早く記録を取り纏めて置きたいとは思ひつつも知らず知らず
 時期を逸した態であった。

 尤もその間に、編纂委員が出来て、材料の取纏めに取りかかってゐたが
 中絶し、その後に又、専門に相當する嘱託(高月氏)が入って起稿し始めたが、
 編史の進行難やら一身上の都合やらで、折角同氏が予定した計画をも
 実現するに至らずして辞された。

 そうした事情の推移から岡社会課長の時代に震災義捐金の残で
 罹災救護会なる組織が出来、その団体の一事業として震災誌を
 編纂することとなった。而して止むなくんば、社会課全体が
 手分けして之を完成しようとの議が起って、準備打合会までやったが、
 
 何分にも課の仕事が多端で、次から次と突発事故も出来、
 着手も延々になってゐたのを、永野社会課長の時代になって、
 いつ迄も延々にすることも出来ないので、

 結局私にお鉢が廻って来た。
 私も熟考の末、勤務の半をこの方に費やすといふ条件で引受けた。
 それは昭和6年の9月、秋風の立ち初むる頃であった。

 私は一応材料を点検して見て考へた。これでは迚も物にならない。
 急務は先づ材料の蒐集整頓であると思った。・・・・・

 だが肝心の県の記録がなかなか纏らない。そこで私は、
 まず大震災当時応急活動に従事した人々で、
 現に在庁又は在葉する人々を日赤支部楼上へ集って頂き、
 私の予定したプランに依って座談会を開いた。

 この座談会から私は多くのものを得た。
 事情の大要をようやく系統的に知るを得たのみならず、
 之に依ってその後幾多資料の所在を教へて呉れる人が
 続々出来たからである。

 それから私は、県の文書課の倉庫の中に納まってゐる書類の、
 当時以後の編年総目次につき関係のありそうな書類を点検して
 引き抜いて、それについて調査し、必要箇所を助手の人々に
 一々書き抜いて貰った。

 それに軍隊や、鉄道や、警察や、病院やその他団体などの
 厚意でいろいろ資料を出して貰ったり、少数の人々に種々事情を
 訊ねたりした。・・・・
 かくして採録材料の上に漸く確信を得るやうになった。

 小さい乍らこれでも一箇の修史の事業である。
 修史の事業であると思ふと編纂してゐる中に
 尽きない一種の感興に繋がれて、感興の動くままに
 思はず夜を徹して筆を進めることも屡々あった。・・・ 」

   ( p979~981 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


はい。「編纂を終へて」に恥じない本文の守備範囲の内容に
以前に読んだ時、パラパラ読みでは申し訳ない気がしました。
かといって、じっくり腰を据えて読んだわけでもありません。
整頓し読もう『とは思ひつつも知らず知らず』今があります。






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「新宮澤賢治語彙辞典」 | トップ | 歌う部隊。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

地震」カテゴリの最新記事