和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『 私はその日 』

2023-02-26 | 先達たち
竹中郁の詩集「動物磁気」(昭和23年7月尾崎書房刊行)の
詩「開聞岳」のなかに、「焼野原の町の」という言葉がありました。

それでは、東京での焼野原は、どうだったのか?
大村はま先生に語っていただきます。

「 昭和22年中学が創設されました・・・

  私はいちばん最初に、来るようにと声をかけてくださった
  校長先生の学校へ行きました。それは江東地区の中学校でした。

  ご存じのとおり大戦災地でしたから、一面の焼野原で、
  朝、学校に行くにも、私は秋葉原という駅で教頭先生をお待ちしていて、
  いっしょに行きました。朝早くからでも女性一人で歩くのはむずかしか
  たのです。

  見渡す限りの焼野原、ところどころに、防空壕のあとがあります。
  まだ、そこに人の住んでいる壕もありましたから、足もとがパッと
  あいて人が出てくる。どこから人が出てくるかわからないのです。

  そこを通ってゆくと、焼け残った鉄筋コンクリートの工業学校が
  あります。その一部を借りて、私のつとめる深川第一中学校と
  いうのは出発しました。

  あのころ、雨が降って傘をさして授業をしているところや、
  大きな算盤(そろばん)がどうしたわけか焼け残っていて、
  その大きな算盤に腰掛けて、子どもが勉強している・・・・

  みんな私の教室でした。
  床があるわけでなく、ガラス戸があるわけでなし。
  本があるわけでなし、ノートがあるわけでない、
  紙はなし、鉛筆はなし・・そこへ赴任したわけです。

  一年生は四クラスで、一クラス50人でしたが、
 『 教室がないから二クラス100人いっしょにやってください 』
  と、こういうわけです。その100人の子どもは
  中学校の開校まで3月から一か月以上野放しになっていた子どもたちです。

  ウワンウワンと騒いでいて・・・・
  私は・・しばらく教室の隅に立ちつくしていました。・・

  ワァワァ騒いでいる中を、少しずつ動いて何か少し教えたりして、
  なんとか授業のかっこうをつけていました、
  とても一斉授業なんてできませんから。    」

こうして、大村はまは、西尾実先生のお宅へ伺います。

「 西尾先生は高笑いなさって、
  『 なかなかいいかっこうじゃないか、
    経験20年というベテランが、教室で立ち往生なんて・・ 』
  とおっしゃり、
  『 そういう時にこそ人間というもはほんものになるのだから、
    病気になったり、死んじゃったら困るけれども・・・    』
  と取り合ってくださいません。 ・・・・   」


うん。ここまでも長く引用しちゃいましたが、このあとでした。
大村はま先生はこのあとに『 私はその日 』と続けるのです。


「 私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
  とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものをたくさんつくりました。
  約100ほどつくって、それに一つ一つ違った問題をつけて、
  ですから100とおりの教材ができたわけです。
  翌日それを持って教室へ出ました。

  そして、子どもを一人ずつつかまえては、
  『 これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん 』と、
  一つずつわたしていったのです。

  すると、これはまたどうでしょう、
  教材をもらった子どもから、食いつくように勉強し始めたのです。
  私はほんとうに驚いてしまいました。・・・・

  そして、子どもというものは、
  『 与えられた教材が自分に合っていて、
    それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな 』
  ということがわかりました。それがない時には
  子どもは『犬ころ』みたいになることがわかりました。

  私は、みんながしいーんとなって床の上でじっとうずくまったり、
  窓わくの所へよりかかったり、壁の所へへばりついて書いたり、

  いろんなかっこうで勉強をしているのを見ながら、
  隣のへやへ行って思いっきり泣いてしまいました。・・・・

  私はそれ以後いかなる場合にも、子どもたちに騒がれることがあっても、
  子どもを責める気持ちにはどうしてもなれなくなりました。
  ・・・・・

  今でもときどきどうかした拍子に、子どもがよくやらないことがあります。
  もちろん、中学生なんてキカン坊盛りですから、私は今も
  『 静かにしなさい 』と言うことがあります。
  ありますけれども・・・慙愧(ざんき)にたえぬ思いなのです。

  能力がなくてこの子たちを静かにする案も持てなかったし、
  対策ができなかったから、万策つきて、敗北の形で
  『 静かにしなさい 』という文句を言うのだということを、
  私はかたく胸に体しています。・・・・・・          」


(  p72~77 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫  )


  

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2 コメント

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Unknown (1948219suisen)
2023-02-26 14:29:49
現代の整った環境より焼け野原だったからこそ、子供たちの向学心は燃えたのでしょうね。同様に大浜先生も教える意欲を掻き立てられたのでしょう。教育環境について考えさせられる光景ですね。ひょっとするとこれは現代の登校拒否問題を考えさせるヒントになるかもしれません。
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こんにちは。 (和田浦海岸)
2023-02-26 17:41:13
こんにちは。水仙さん。
コメントありがとうございます。

やはり、『焼野原の・・』とはじめるのが、
強すぎて、いけなかったのかもしれません。

そのイメージで水仙さんのこのコメントを
導き出してしまったのでしょう。反省です。
返信する

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