私が話すと、聞く人をして支離滅裂と感じさせる(笑)。
たとえば、1時間話すなら、あらかじめ下書きをして、
それに則って進めないと、話しが取留めもなくなる。
収拾がつかない自分が自分で分るから尚さらに困る。
今年に1回、1時間ほどのお話をする予定があります。
仮題に『 安房郡の関東大震災 』と決めています。
そのお話しを、系統だって秩序だって話せない苦手。
けれど、当ブログで当日話す資料をあれこれと吟味する。
これなら、こころ弾みます。納得ゆくよう資料を紐解く。
ここに、こんな資料があり。それとこれと結びつきそう。
そういう醍醐味が、資料をひらく楽しみとしてあります。
これで『郷土歴史』へと、あたらしい光があてられれば。
はい。それでは、もどって『安房郡の関東大震災』のお話。
ここには、関東大震災当日の北條病院をとりあげてみます。
君塚文雄編「写真集 明治大正昭和 館山」(国書刊行会・昭和56年)。
この写真集をひらくと「北条病院旧本館正面」写真(p43)があります。
君塚氏の解説を読むと、
「 ・・・写真は明治44年に建てられた北条病院で、
天然スレート葺きの瀟洒な建物であった。この建物は、
大地震にも倒壊せず、昭和49年現在の鉄筋化の病院が
出来るまで使用されていた。 」 とあります。
「安房震災誌」から、その北条病院の記述をひろってみます。
「 当町(北條町)の総戸数は1616戸であるが、
その倒潰数は実に百分の96に達してゐる。
即ち全潰1502戸、半潰47戸である。
その他の町内の建築物といふ建築物は殆ど倒潰して了った。
即ち郡役所、旧郡会議事堂、町役場、裁判所、警察署、
県立中学校、県立高等女学校、町立小学校、銀行、会社、
北条停車場を始め商店、農家、旅館、倉庫等は勿論、
此等の付属建物まで、殆んど全滅の姿であった。
唯だ僅かに・・・・北條税務署、北條病院の数軒が
倒潰から免れて存在したのみである。 」(p106)
同書の別の箇所には
「・・・大部分は皆な倒潰して了った。
北條町でも僅かに北條病院と諸隈病院とが、倒潰を免れたのみである。
その他の医家は悉く倒潰して了った。
一方此の多数の負傷者に対して応急救護を盡すべき方法がない。
負傷者は何れも先を争て肩車や、戸板で、前記2病院へ運ばれたので、
病院では、見る間に庭も道路も一帯に負傷者の山を築いたのであった。
中には殆んど瀕死のものもあった。素より限りある設備である。
こう殺到する多数の負傷者をどうすることも出来なかった。・・・
外に折柄、納涼博覧会が閉会したばかりで、
まだ建物が其の儘に残ってゐた。而かも倒潰を免かれてゐたのを
幸ひに、負傷者は、其處に擔ぎ込まれ、雨露だけでも凌がせようと
したものが又山なすほどであった。
ところが、其處の主任者が、多少医療に経験を有っていたので・・・
そこで、納涼博覧会跡は、忽ち一つの病院のやうなものに変じて了った。
兎も角も此處も負傷者の集合場となってゐたので、
数日の後には小原医学士が回診して患者を救護してやった。・・・」(p242~243)
「大正大震災の回顧と其の復興」(上巻)に
安房郡役所で建物の下敷きとなり、さいわい隣の北條病院にかつぎこまれた
中川良助氏の文が載っておりましたので、それに関する箇所を最後に引用。
「・・・助けによって引き出され半戸板に乗せられて隣の北條病院の庭に運ばれた。
驚いたのはここに集って居る被害者だ、蟲の息で唸ってゐる者、
手足を動かして苦しんで居る者、泣く者、騒ぐ者、既に息絶へた者、
今将に息の絶えんとしつつある者・・・・
暫くすると曩の杉田郡書記が掘出されて運ばれて来た。
来た時にはまだ手足を動かして居たが程なく息を引き取ってしまった。・・
私はここで北條病院長の手当を受けた。
手当といってもほんの名計りだ。
身体中はスリムケそれが時間の経つに従って腫れ上って来て居る。
顔などまるで眼球が飛び出した様に見えたといふ事で、
一時失明の報が伝はったのも無理のない事だ。
その傷にヨヂームチンキらしいものをつけ、
出血の甚だしい所はヨゴレタオルを裂いて繃帯するといふ始末、
でも此れだけの手当をして貰へる者は
何百人中の一人といふ程であったのだ。・・・ 」(p852)
写真集に掲載された白黒写真「北条病院旧本館正面」を前にして、
関東大震災当時の北條病院の庭を、あれこれと思い描くのでした。
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