気になって注文した
井上章一著「京都ぎらい」(朝日新書・2015年)が届く。
表紙カバーの上に同じ大きさのカバーがかけてあって、
「2016年新書大賞第1位」とあるのでした。
定価41円+送料257円=298円。
うん。はじめの30ページほど読んで満腹感。
この本のはじまりのキッカケとなった2人が登場する場面。
「そのころ私が在籍していた京都大学建築学科の上田篤ゼミは、
町屋の研究にいどんでいた。杉本家住宅の建築も、しらべるリストに、
はいっている。・・・私は同家をたずねている。
初対面の九代目当主、故杉本秀太郎氏とも、会うことができた。」
(p17)
杉本氏との言葉のやりとりがキッカケとなって、
この本がはじまっているのでした。よほどカチンときて、
井上章一氏は、それ以後その会話がひっかかっていたようです。
つぎに梅棹忠夫氏の登場となります。
「あれは、1990年代のなかごろであったと思う。
私は、国立民族学博物館の顧問になっていた梅棹氏の執務室を、
おとずれた。学問の歴史に興味のある私は、碩学たちにしばしば
昔話をたずねることがある。梅棹氏のところへおもむいたのも、
そんな取材のためである。
・・・・そして、梅棹氏にも問うてみた。
『先生も、嵯峨あたりのことは、田舎やと見下したはりましたか』
あまりためらいもせず、西陣で生まれそだった梅棹氏は、
こうこたえてくれた。
『そら、そうや。あのへんの言葉づかいがおかしかった。
僕らが中学生ぐらいの時には、まねをしてよう笑いおうたもんや。
じかにからこうたりもしたな。・・・そら、しゃあないで』
嵯峨の住民は、言葉づかいがおかしかったという。
どうやら、私の故郷には、独特のなまりがあったようである。
今は京都市の右京区に編入されている嵯峨だが、
かつては京都府葛野(かどの)郡にぞくしていた。
そのしゃべり方も、京都弁とはいくらかちがっていたらしい。
梅棹氏には、それがたいそうこっけいに聞こえたという。
ざんねんながら、1960年代以後の嵯峨にそだった私は、
そのなまりがつかえない。あのあたりは、もうすっかり
京都弁のとびかう地域になっていた。私の口調も、
京都風のそれにそめあげられている。」(p24~25)
うん。わたしはここまでで満足してしまう(笑)。
おそらく、杉本秀太郎・梅棹忠夫の両氏は、
このはじまりに登場しただけで姿を消すのだろうなあ。
それから、このテーマを引きずってきた井上章一氏が
どのようにして、この二人の言葉を咀嚼して辿ってゆくのか。
うん。とりあえず、わたしの298円読書はここまで。
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