終戦後の昭和22年。その頃の二人。
ひとりは、大村はま。もうひとりは、竹中郁。
はい。今回も竹中郁から。次回が大村はま。ということにします。
「竹中郁全詩集」(角川書店・昭和58年)。
この本の監修は井上靖。編集は、足立巻一・杉山平一。
ということで、最後には
井上靖 竹中さんのこと
杉山平一 竹中郁の世界
足立巻一 解題
足立巻一 年譜
がありました。そこの井上靖氏の文から
「私は終戦の20年8月から23年いっぱいぐらいまでを、
つまり終戦後の3年半ばかりの間・・・
私はこの奇妙な、ものの怪に憑かれたような
3年半の時期を大阪で過した。・・・・
童詩雑誌を出そうということになった。・・
初め私が『たんぽぽ』という名をつけたが、竹中氏が現れると、
あっという間に『きりん』という名に変ってしまった。・・
今考えると、あの狐に化かされたような戦後の一季節が、
なんとすばらしい時期に見えることか。・・・
私たちがやっていたことは、
このあとにも先にもない正確で純粋であったような気がする。
『 きりん 』はそういう時期の所産である。
もう今はできない。あの季節だけにできたことなのである。
『 きりん 』は私の上京後も引続き発行され、37年に東京の
理論社の手に移り、ずっと児童詩の世界で大きい仕事をしたが、
46年に通巻220号で廃刊となっている。
・・まん中に坐っていたのは竹中さんである。・・
私たちの仲間で一番暗くあって然るべきなのは
竹中さんであったかも知れない。
氏は戦火によって生家も、養家も、御自分の住居も、
たくさんの蔵書もすっかり焼いてしまっているのである。
氏はそうしたことから受けられた筈の心の打撃の、
その片鱗をも見せなかった。構えているわけではなく、
それがごく自然であった。・・・
こうしたことは氏の第七詩集『動物磁気』をひもどくとよく判る。
この詩集は23年7月、尾崎書房から出版されたもので、
私が氏と漸く繁くお付合するようになったその時期の、
戦後の作品が一冊に収められている。・・・・
どの一篇をとっても、そこには戦後が顔を出しているが、
しかし暗さはみじんもない。焼跡から詩を拾っているが、
まるで宝石でも拾うような拾い方である。・・・・ 」
はい。つい引用が長くなりました。最後に、
詩集『動物磁気』から一篇を引用したいのですが、
どれにしようか。そういえば、杉山平一氏の詩に
「開聞岳」と題する詩があったなあ。と思い出す。
その詩は、『竹中郁の詩が仲々見つからない』とあり、
その詩が、『やっと、大戦後の《動物磁気》に、見つける。』
とありました。はい。この竹中郁の詩『開聞岳』を引用。
開聞岳 竹中郁
このごろ
しきりに開聞岳が見たい
開聞岳 あの九州の南端の
海から生えたやうな傑作だ
夢にもくっきりと現はれる美しさ
しきりに死火山開聞岳が見たい
〇
昭和15年2月10日早暁
海上から打ち眺めた
開聞岳の眉目
〇
もの悲しい焼野原の町のゆくて
ときどき 突然
開聞岳が見える
そして ぱったり消える
アイスクリームをたべたより
十倍も爽快だ
やはり、杉山平一の詩『開聞岳』も最後に引用しておきます。
開聞岳 杉山平一
昭和15年2月10日早暁
海上から打ち眺めた
開聞岳の眉目
という竹中郁の詩が仲々見つからない。
南方詩を集めた詩集『龍骨』に無く、
やっと、大戦後の『動物磁気』に、見つける。
晴れた夜、『海から生えたやうな傑作』と、
竹中郁が歌ったこの本州最南端の山の頂上に立つと、
ときに、南十字星の先端が地平に覗くのが見えるという。
いまは、空が濁って、いよいよ見え難いかも知れない。
きらりと澄む竹中郁という星を失って、
濁っているのは空ばかりではない、と気がつく。
この杉山平一の詩は、詩集『木の間がくれ』に載ったようです。
この詩集についての説明もありました。
「 昭和62年10月30日、長野県埴科郡戸倉町小船山82
終日閑房西澤賢一発行・・・
本文手漉和紙飛騨河合山中和紙を使う、
段ボールサック入り、限定87部・・・
広く世に問うという自負もなかったし、
短い詩ばかりなので、樹の向うにかくれて、
チラッチラッとしか姿の見えない木の間がくれを題名にした。・・ 」
( p686 「 杉山平一全詩集〈 上 〉」編集工房ノア・1997年 )
はい。次回ブログは、昭和22年頃の、大村はまを取り上げます。
私は特攻隊があの山を目指して飛び立ったという話が頭にあったから、あの山が神々しく見えて仕方なかったです。
コメントありがとうございます。
開聞岳は知らないので、ノーコメント。
そういえば、『動物磁気』に
水仙が出てくる箇所がありました。
「 島でたった一人の詩人から手紙きたる
詩筆涸ると 水仙咲くと 」