資料の裏付けがない癖して、身近で、
あれこれ結びつけたくなるのでした。
今日思い浮かぶのは、米騒動と農学校設立でした。
米騒動が、1918(大正7)年にあったということでした。
それでは、大橋高四郎はそのころどうしていたのか?
取敢えず、山武郡の郡長をしていた頃と重なるような気がします。
そこでの、大橋高四郎は農学校の創立に尽力されていたようです。
そうして、大正9年12月、大橋氏は安房郡長として赴任し、
安房では、安房農学校の設立にかかわることになります。
ここでもって、思い浮かべるのが、宮澤賢治でした。
1920(大正9)年・・盛岡高等農林地質学研究科を終業した賢治でした。
1921(大正10)年9月、妹トシの病報を受け花巻に帰ってきます。
「そういうとき・・郡長の葛(くず)博、農学校校長の畠山栄一郎が
賢治を農学校教諭にむかえたいといってきた。・・ 」
( p187 堀尾青史「年譜宮澤賢治伝」中公文庫 )
1921年12月3日 25才になる賢治は、稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。
賢治が農学校の教諭になるさいに、
郡長からどのような言葉をかけられたのか、わからないながら気になります。
貴島憲が安房農学校の教諭になる、そのキッカケならば、
安房農学校の記念誌に、貴島氏の回顧文が載っておりました。
今回は、その回顧文を引用しておわります。
「 大正10年の春、時の安房郡長の大橋さんの電報で、
私ははじめて北条の郡役所にやって来た。
そこが安房農業水産学校の創立事務所になっていた。
郡役所の玄関の前に大きな辛夷が一ぱいに花をつけていたから
3月の中旬の事であったであろう。
そこで大橋さんから学校に関して色々なお話を承った。
何でも此の新しい学校は、今度新に文部省で制定された
五ヶ年制実業学校として、全国に率先して創立されたもので、
其期する処は、従来の様な不徹底な到底役に立つ筈のない
下手な技術員養成でもなく、又それかと言って今の中学の様な
・・・・ものでもなく、将来社会の中堅として役立つべき青年に
直に基礎的な普通教育を与へる学校、つまり農村的漁村的公民学校
というべきものでなければならないという事であった。
私はどうもこれはむつかしい仕事だと思った。
併し同時に大変大切な事で、もしそれが全国に普及し
よく運用されたなら、かの豆粕程のデンマークをして
世界に重きをなさしめた国民高等学校のような働き、
此の行き詰まった貧乏国家を一新せしめるような
働きをなさないものでもない、
吾々もまあ精々椽の下の力持を勤める事にしようと考へた。
大橋さんの清新溌溂たる精神に感服すると共に、
私自身も大に愉快になってきた。 」
( p76 「千葉県立安房農業高等学校創立五十周年記念誌」)
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