和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

向井敏と平野謙。

2012-06-02 | 前書・後書。
丸谷才一・池澤夏樹編「愉快な本と立派な本」(毎日新聞社)は毎日新聞の「今週の本棚」を編集した3巻本の一冊目。さてっと、そこに丸谷才一による向井敏著「机上の一群」への書評が選ばれている(p205~206)。その書評の最後はこうでした。

「一体に向井は新人を発見し推薦することに熱心で、あるいはフランス文学の鹿島茂、あるいは劇評の渡辺保を仔細に論じてその新しさと魅力を説く。それはかつて平野謙に推奨された若い小説家がたちまち世に認められた事態を思い出させる。・・平野は文芸時評の筆者として一世を風靡した人で、向井は当代を代表する書評の名手である。前者の果した役割に近いものをいま後者が受持っているとすれば、文芸時評の時代から書評の時代への移りゆきをこれほどよく見せてくれる取合せはほかにない。」(1995・7・17)

ちなみに、「愉快な本と立派な本」の1996年5月20日には、
向井敏による、『丸谷才一批評集』全6巻への書評が載っていて(p259~261)、さながら、書評の饗宴によばれて、まるで書評というご馳走を前に、どれから箸をつけたらよいのかうれしい心配をしているようになります。では、向井敏の書評の最後を引用してみます。

「それにしても、小説家が全六巻もの批評集を、それも第一級の名篇をそろえた批評集を出すというのは史上空前のことで、慶賀にたえないが、これに花を添えているのが、各巻の巻末に付された対談による解題。
池澤夏樹、渡辺保、瀬戸川猛資、三浦雅士、川本三郎、井上ひさしといった面々が対談相手なのだが、このうち筆者に近い世代は井上ひさしだけで、あとの五人はいずれも二まわり以上も下の気鋭の批評家。その彼らが大胆不敵な仮説や機微を衝く問いを発して、しばしば著者をたじろがせるのである。
その昔、丸谷才一は『梨のつぶて』の題名に、どう説いて聞かせてもだれも相手にしないだろうという皮肉をこめたにちがいないのだが、それが今は、もはや『梨のつぶて』どころか、打てば響くものになっていると知って、感無量だったのではあるまいか。」


うん。向井敏氏のご指摘の『感無量』の巻末対談を、読んでみたくなりました(笑)。


たとえば、第四巻「近代小説のために」の巻末対談は三浦雅士氏。
そこに平野謙の名前が登場しておりますので、それも引用。

丸谷】 ・・・要するに日本の文芸評論は、声と表情が単純だったんですよ。その単純さを破壊したのが、平野謙という人。彼はぼやき節を入れることによって壊した。
三浦】 これまた大発見だ!(笑)
丸谷】 吉田健一さんもそうです。つまり小林秀雄的な『寄らば斬るぞ』みたいな文体でもなく、中村光夫的な中学の先生が修身を教えるみたいな文体でもなく文芸批評が書けるということを、平野謙と吉田健一は証明したと思うんです。あの二人のおかげで文芸批評は随分楽になったんですよ。

三浦】 僕は平野さんて、右顧もちゃんと書くし、左眄もちゃんと書くという誠実さを持った人だと思っていました。だってあの人の時評、この前ああいうふうに言ったけども、よくよく考えてみたらこうだったっていうのがとても多いんですよ。
丸谷】 ああいういきさつを皆書けるっていうことはね、大変な文章能力なんですよ。普通、時評なんて短いスペースで、ああでもあるしこうでもあるみたいなことは書けないですよ、よほどの文章力がなくちゃあ。


え~と。向井敏と平野謙とが登場したので、今回はここまで。
この全六巻の巻末対談は、面白く(巻末対談だけで、本文を読んでいなのは御愛嬌)、別の話題で、明日も書くことにいたします(笑)。

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