「日本わらべ歌全集10上」(柳原書店)は、「石川のわらべ歌」です。
小林輝治氏が、あとがきを書いております。そのはじまりに
「 伝承歌謡の収集に対して、これは
『 今の時代の一番重要な仕事かもしれない 』
( 柳田國男『民謡と歌謡と』昭和31 )
ということばにうなずいて、今では30年が経っている。・・ 」
(p237)
ああそうだ、そうだ。と思い出したように、柳田國男。
以前に、柳田國男を読もうと思ったことがありました。
けど、思うだけで結局は一冊くらいしか読めなかった。
はい。柳田國男の著作山脈のどこかにきっと私にふさわしい登山
コースがある。それがわかりさえすれば展望がひらけるかもしれない。
そんなことを思いながらも、糸口もつかめなく、過ごしておりました。
はい。結局はホッポリだしたまま、読まなかったわけです。
今回は、わらべ歌という登山口から柳田國男山脈の展望がひらける。
そんな期待をもって読み齧りでもチャレンジしたいと思うわけです。
はい。そんなわけで、
筑摩書房の「新編 柳田國男集」の第10巻にある
『 母の手毬歌 』を、おもむろにひらきました。
今回引用するのは、そこにある『 母の手毬 』 。
「私の母は、今活きていると106歳ほどになるのだが、
もう50年前になくなってしまった。
男の子ばかりが8人もあって、
それを育てるのに大へんな苦労をして、
朝から夜までじっとしている時がないくらい、
用の多いからだであったのに、
おまけに人の世話をすることが好きで、
よく頼まれては若い者に意見をしたり、
家庭のごたごたの仲裁をしてみたり、とかく理屈めいた話が多く、
どちらかというと女らしい所の少ない人であったが、
それでいて不思議に手毬だけを無上に愛していた。
うちには女の子は一人もないのに、余った木綿糸さえ見れば、
きっと自分で手毬をかがって、よその小娘にも遣れば
またうちにも置いたので、私たちの玩具箱には、
いつも2つも3つもごろごろしていた。
そうして私たちがたまたまついてみたり揚げてみたりしていると、
傍へ寄って来て正月でない時にも、自分で上手に遊んでみせてくれた。
しかし母のはいつでも揚げ毬の方であった。
そうしてその歌が村の女の子たちの歌っているのとは、
大分にちがっていた。それを何べんも聴いているうちに、
わざは真似ることができなかったが、
歌だけは私も大よそ覚えてしまったのである。・・ 」
( p244~245 「新編柳田國男集」第十巻 1979年 )
いそいで、柳田國男の略年譜をひらく。
そのはじまりに
1875年(明治8) 7月31日、兵庫県神東郡田原村辻川
( 現 神埼郡福崎町辻川 )に生まれる。
とあります。お母さんも出身は、その近くだったのでしょうか。