杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)を、
寝る時にパラパラとめくっているのですが、楽しい。
たとえば、こんな箇所がありました。
と、とりあえずは一箇所を引用。
こうはじまります。
「旅の印象というものは、
旅さなかの日記、覚書の備えがなければ、
三日すぎると早くも薄れてしまう。
私の経験では、いくら写真をとっていても、
印象保持にはめったに役立たず、片々たる紙きれにかいた
スケッチが百枚の写真にまさっていることがある。
風景、風俗、器物、生物など、
目に触れて興味を呼びさましたものの絵姿は、
どんなに粗略であっても日記、覚書以上に
旅の印象をよく蘇生させる。
だから迅速の素描家を兼ねている旅日記の書き手は、
旅じょうずな人である。旅はたしかに技芸のうちに
かぞえることができる。
それは今更らしく言うほどのことではない。
真澄、江漢、鉄斎、ただこの三人の名を挙げる
のみで証明は十分すぎるし、絵入り旅日記の
すぐれた書き手は枚挙にいとまがない。
・・・こんなことを言い出したのは、去年から
今年にかけて、初めての土地を訪れる旅をふたつしたのに、
そのひとつにいたっては、つい十日ばかり前のことなのに、
甚だしくおぼつかない印象を残すのみなのはどういうわけかと
振返ってみれば、日記も覚書も何もしるしていなかった、
そのためだと気付いて、今更らしく茫然となり、
むなしい気分におそわれたのである。・・・」(p103)
はい。ウォーキングしかり、私は旅をしていないのですが、
gooブログで、旅の写真やスケッチを見せてもらっていると、
楽しみやら、羨ましいやら、いろいろと思うのでした。
そんな旅の風景、一場面を見させてもらっているので、
とりわけ、この文章のはじまりが興味を惹くのでした。
はい。この本から、もう一箇所引用してみます。
斉藤緑雨をとりあげた箇所でした。
「にがい気持をそのまま長くたもっているのは、
だれの得にもならない――殊に当人に最もためにならない。
窮状をすり抜けるには、にがい気持に
みずから適切な表現をあたえ、形をつけるを第一の策とし、
これを首尾よく仕とげている文章に目をさらすを次善の策とする。
ここに辛辣な警言の人緑雨の出番がある。
・・・・・」(p44)
うん。ついつい読書の枝葉へと伸びてゆく
移り気なわたしとしては、何を読んでよいかもわからないながら、
斎藤緑雨の本を読みたくなってくるのでした。
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