杉本秀太郎さんのことを、塚本珪一氏はこう指摘したのでした。
「本業はフランス文学であるが、立派な博物学者である。
彼のエッセイには『博物学者』の称号を与えたい。
『洛中通信』(岩波書店、1993年)、
『青い兎』 (岩波書店、2004年)、
『京都夢幻記』(新潮社、2007年)などがある。」
( 「フンコロガシ先生の京都昆虫記」p196~197 )
この指摘は、ありがたかった。
杉本秀太郎氏は、フランス文学者というイメージが、
私に固定観念として、もう出来上がっておりました。
『家』というイメージならフランス文学は玄関。
杉本家の表玄関は、わたしには敷居が高すぎる。
けれども、路地のウラ木戸からならばはいれる。
そんな、気楽な3冊を塚本氏が紹介されていた。
『京都夢幻記』に「一冊の売立目録」のことが出て来ます。
そこをお気楽に引用してゆきます。
「昭和12年2月に大阪北浜の道具商、植村平兵衛と磯上青次郎が
札元となり、大阪美術倶楽部を会場として売立て目録がある。
所蔵品を処分に附した家は名を伏せて記されないこともまれではない。
これも京都某家とある。」(p183)
ここから、杉本氏は語り始めます。
「打明けると、『京都某家』は私の家である。
手許のこの『目録』は父の書き入れを伴っている。
総品数は1340点、そのうち最も主要な124点は写真版で掲載
されているが、そのすべてに落札価格が父の手でしるしてある。
売立は2月1日、2日を下見に当て、3日を入札日として行なわれた。
・・・・
父は別に『売立日記』をしるし、また、土蔵四棟のうち
一棟をすっかり空(から)にした大売立がいかなる事情に
迫られてのことだったか、『杉本同族整理顛末』と題して、
これを詳しく分析記述したのち、売立を決断した日のことにおよんでいる。
父は34歳、家督相続して2年目であった。
売立の出来高は27万4千円に達した。これが
同族の分家を高利貸の魔手から脱出させ、
本家の危難を払うことに用いられた。
いまもときどきこの売立目録をながめる
( 渡仏のときも荷の中に収めていた )。
かような品々を家蔵していた時代があったことの不思議が心を動かす。
そして青年時代のある日、売立目録を持ち出してきた私に、
胸の内を洩らして語った父の俤(おもかげ)を目録の
写真版のページにかさねる。
―――大売立のときの見納めた逸品は、全部よくおぼえているよ。
上物(じょうもの)はあらかた手放したが、手放してから、
かえって血となり肉となったものが、ほんまもんだ。
あれから以後、何ひとつ、欲しいとおもう絵も無し、道具も無し。
良いものはもう見てしまっている。それだけのことだよ。
旧蔵品に対して私が未練がましい気持を抱くことなしにきたのは、
父のことばがよくわかったからであり、それは私もまた
あのときに手放したことを意味する。・・・・・」(~p185)
うん。路地からはいった、京都を見ていると、
何気にフランスへとつながっていたりします。
杉本秀太郎のフランスの随筆を読んでみても、
いっこうに、とりとめもなかったわけですが、
ここからなら、理解の糸口がつかめたような、
そんな気がしてくるのでした。
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