和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

俳諧の兄の『笑い』。

2022-03-22 | 柳田国男を読む
敗戦の翌年の
1946年(昭和21)11月に、桑原武夫の『第二芸術』。
1947年(昭和22)12月に、柳田国男の『病める俳人への手紙』。

『病める俳人への手紙』(以下に略して『手紙』)のはじまりは、

『  人を楽しませるものが芸術だといふことを、
   思ひ出さずには居られない時世になりました。

  ・・・時のはずみとは言ひながら、その芸術さへ
   闘諍(とうじょう)の種、恨みと憎しみの目標
   にしなければならぬといふことは、何としても
   忍び難いことであります。          』

そのあとに『芸術を楽しむのに二つの道があって・・』とあり、

『・・・ 時の順序を目安に取るならば、
     作者が自ら楽しむ芸術が兄なのであります。 』

『手紙』には、こんな箇所もありました。

『 翁(芭蕉)にも現代風な野心といふものがあったろうか
  といふあなたの疑問は、疑問にするねうちも無いやうです。

  人には生きて居れば必ず願ひはありますが、
  翁の願ひはそれが成就するならば、俳諧が
  もっと楽しいものになるやうな願ひでありました。 』

うん。ここを引用していると、そういえば柳田国男に
『笑の本願』と題する文があったと、思い浮かびます。

締めくくりなら、ここかなあ。

『 俳諧を復興しようとするならば、
  先づ作者を楽しましめ、次には
  是を傍観する我々に、楽しい同情を
  抱かしめるやうにしなければなりません。

  ・・・すぐれた文学を世に留めることが、
  俳諧の目的であったやうに解するのが、
  病の原(もと)であったかと思ひます・・・  』

はい。『芸術』という言葉がある、この箇所も引用。

『 連歌は始めから、
  仲間以外の者には退屈なものと相場がきまって居りました。
  
  それがどうして又当事者ばかりには、あの様に身を忘れるほど
  楽しかったのかといふことが、寧ろこの芸術の深秘であります。

  ・・・・とにかくに中途に誰かが才能を閃かせて、
  更に一段とをかしいことを言ひ出して、笑はせてくれる
  だろうといふ予期のもとに、一同が句を附け続けて行かう
  とする所に、楽しみがあったのであります。

  ・・・・私どもから見ますれば、
  俳諧に一貫性を欠くといふことの発見ほど、
  わかり切った平凡な発見は他にありません。

  変化が目的で寄り集まった催しであるからには、
  もし統一して居たら寧ろ興ざめであります。

  やり句が絶対に必要であったといふ以上に、
  時々はヘマや附けそこなひのある方が、
  却って全巻の楽しみを深くして居たのです。・・・」


はい。はじめて読むことばかりなので、
つい、引用が長くなりました。これくらいにします。




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4 コメント

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こんにちは(^^♪ (のりピー)
2022-03-22 12:35:16
作者自らが楽しむ芸術が兄・・・ならば弟は?? へまやつけそこない?? 
ピーマン頭に石頭は戸惑うばかりです・・・(^_-)
返信する
姉妹と兄弟。 (和田浦海岸)
2022-03-22 13:06:31
こんにちは。のりピーさん。
コメントありがとうございます。

うん。サザエさんとカツオ君。
長谷川まり子と、長谷川町子。
姉妹と兄弟とどちらがどっち。

それはそうと、この手紙は
桑原武夫の『第二芸術』を
手紙の差出人と受取人との
共通話題として始まるようです。
そのテーマが最初にありました。
うん。めんどうで、引用しなかったのですが、
面白いテーマなので、ここに引用してみます。

『芸術を楽しむのに二つの道があって』
のつぎでした。兄と弟になぞらえて

「今一つは後に始まり、次第に以前からの
ものを押しのけて進もうとして居ることは、
・・ことに俳諧の上には其跡がはっきりとして
居るのであります。」

こうして弟が兄を押しのけてゆき、
兄が『第二』となったとするので、
これは、『第二芸術』を意識している
ように思えます。
兄の『第二』を柳田国男氏は
このように書き進んでおります。

「第二と呼ばれると下等のもの、
劣ったものといふ感じが伴ひやすいけれども、
是は二つの方向を異にした、
比べることの実は出来ない道なのです。

一方(弟?)が当世にもてはやされ、
従って世評に上りやすい楽しみ方だ
ということになれば、

こちらは(兄?)そうで無いのだから、
第二に算へられるのは是非もないことです。

時の順序を目安に取るならば、
作者が自ら楽しむ芸術の方が
兄なのであります。」

はい。この箇所が、『手紙』の
はじまりに書かれておりました。

これで、理解を助けますか?

ここは、桑原武夫の『第二芸術』を踏まえながら、
柳田国男が手紙を書いているはじまりなのでした。

はい。このコメント欄で
『第二』と兄弟とを引用ができました。
私の方もこれですっきりした気分です。
返信する
有難うございます (のりピー)
2022-03-22 14:21:39
昨日に引き続き、ピーマン頭にお付き合い頂いて恐縮しております。 ご丁寧なご説明有難うございました。
返信する
論理の糸を見失い。 (和田浦海岸)
2022-03-22 17:17:46
コメントありがとうございます。
のりピーさん。

のりピーさんの困惑は、
当然のことのようです。

岩波文庫の「不幸なる芸術・笑の本願」。
その解説を井上ひさしさんが担当してる。
井上さんは柳田国男の文章の特徴を語る。

「息の長い、『だらだらした』文章が続いたと
気づくや、とっておきの情報をふたつみっつ
フラッシュのように焚いて読者の目をさまさせる。
というのも柳田国男の文章に目立つ特徴である。

そしてじつにしばしば脇街道にそれ、間道を縫い、
木樵道に迷ったふりして論理を『遠回り』させる
のも、この名人の常套である。

読者はついに論理の糸を見失い、どうもよく
わからぬと首をひねるが、しかし例の輝くばかり
の情報だけは忘れない。・・・」

「このように隠された主題を探し求めつつ読み
進み、どうやら主題を嗅ぎ当てたところで、
『まあ、結論はあなたの方でお出しなさいな』
と突き離されるのだから、
彼の文章が読みやすいわけはないだろう。

『なにが書いてあるのか』、
『そしてなにがどうしたのだ』と
性急に問う読者は、出入り差止めと
なるほかはないのである。・・・」

はい。この柳田国男の文章を読んで
わかりやすくブログに載せられるはずもなく、
のりピーさんのコメントが出るのは、
正直な感想なのだと思っております。

どうも柳田国男を読むというのは、
こういうところから始まるらしい。

ということです。のりピーさん。
返信する

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