和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「よく出来ました、おめでとう」

2020-04-16 | 前書・後書。
本は読まずに、前書きと、後書きのパラパラ読みで
すませる私がおります。はい。それだけで満腹。

ネット上で、本の検索をするのですが、
今回の検索は、芳賀徹でした。
うん。文庫本の解説を芳賀徹氏がしている。
その本も、検索に引っ掛かるのが、何ともありがたい。


さっそく
山川菊栄著「武家の女性」(岩波文庫)をひらく。
はい。お目当ては、芳賀徹の解説文でした。
そこから、引用することに

「・・興味津々の話題が多く・・・
『お縫子(ぬいこ)として』の章の次の挿話などはどうだろう。

それは菊栄の母千世が13になって、水戸川崎町の
石川富右衛門という貧しい老藩士の奥さんのところに
お裁縫を習いにいっていたときの話である。

六尺ゆたかの、頭の禿げた老藩士は、いつも息子とともに
傘張りの内職に精出していたが、一方、自分の家にくる10人
ばかりのお縫子たちのことが可愛くて自慢でならなかったらしい。

奥さんのお師匠さんの方もそのことをちゃんと心得ていて、
お弟子さんが着物を一枚仕立て上げると、
『それでようござんすからおじいさんの所へもっていらっしゃい』

という。そこでいそいそとおじいさんの仕事場にもっていくと、
おじいさんはいかにも心得たような顔で
仕立物のあちこちを調べたあげくーーー

『結構です、よく出来ました、おめでとう』
と褒(ほ)めて祝ってくれます。それから

『それでは私が霧を吹いてあげよう』
といいます。その頃の着物は手織もめんですから
縫っている間に皺(しわ)だらけになるので、
仕立て上げると霧を吹くことになっていました。

おじいさんは、毎日傘を張っては霧を吹くので、
霧吹きは慣れたもので確かに名人です。・・・・・・

おじいさんに、お礼をいって部屋へ帰り、
仕立物をお師匠さんの前において手をつき、

『おじいさんがこれでいいとおっしゃいました』
と報告します。そこで始めてお師匠さんも、
『おめでとうございます』
と祝ってくれ、ここでまたお礼をいい、
それからお友達一同に向かい、仕立物を前において、
『皆さん、ありがとうございました』というと、
口々に、『おめでとうございます』といってくれるのでした。
 (本文、41~42頁)

芳賀徹氏は、こうして解説の中で本文を引用したあとに

「なんとも美しく、またほほえましい話ではないか。
そして話題にぴったりと合った、その語り口のうまさ。
・・・・・・・・・・
そのゆるやかなテンポが、このまるで童話か民話のような
お針塾の雰囲気をかえっていきいきと伝えてくれる。
・・・・・・・・・
菊栄は娘のころから母千世のこんな昔話を聞くのが好きで、
繰り返し繰り返し聞くうちに、その昔風ののどかな口調まで
おぼえてしまったのにちがいない。
・・・・・・・・
菊栄も昭和17・8年のころ、戦時下の薄暗い藤沢の田舎で
・・・・このような遠い昔の母や祖母やおばたちの話を
書いてゆけば、いくらかはその心もなごみ、
勇気づけられる思いがしたことであろう。」

この後に、芳賀徹氏は指摘するのでした。

「古い日本では、お裁縫を習い、簡単な着物一つでも
仕立てるということは、少女たちにとってはこれほどにも
真剣な、大切な修業の一つだったということであろう。

彼女らの人生における一つの通過儀礼のようなもの
でさえあったらしい。だからこそ、一段を通過するたびに、
おじいさんは霧を吹いてくれ、お師匠さんも仲間たちも
『おめでとうございます』をいってくれ、当人は
『皆さん、ありがとうございました』をいったのである。

この水戸の石川夫人の塾に限らず、ほかでも多分そうだった
のだろうと思うが、そこにはたしかに儀礼というのに近い
一つのしきたりがあった。」(~p196)


はい。この解説で私は満腹。
最後の解説を引用したので、
著者のはじまりの『はしがき』からも引用。

「私がここに御紹介するのは、安政4年、水戸に生れて、
今年87歳になる老母の思い出を主とした、幕末の
水戸藩の下級武士の家庭と女性の日常の様子であります・・」

この文庫には写真が2枚あります。
文庫のはじまりに、山川菊栄の母親・青山千世が、
青山千世のご両親といっしょの写真(明治12年)。
もう1枚の写真はというと、解説にありました。
それは、昭和5年5月の自宅の庭での写真らしく、
千世と菊栄の二人が写っております。

はい。その2枚の写真を見てるだけでも、
いいんです(笑)。








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人生の体験だった。

2020-04-15 | 朝日新聞
「竹山道雄著作集」の最終第8巻・古都遍歴。
その月報に、竹山道雄ご自身による「あとがきにかえて」
が書かれておりました。今回初めて読みました。
そこから引用。

「・・・・私の働きざかりの年頃はたまたま世界の大変動期だった。
私にとっては戦中戦後は人生の体験だった。

そのさまざまな現象を考えてゆくと、
いつもある異様な謎にゆきあたった。
それは世界に対する人間の対世界認識の仕方ということである。
この人間の認識について、今はだいたい次のように考える。
ーー人間の認識は欲求によって左右される。
かくあってほしいということがかくあると信じられ、
自分にとって具合のわるいことはあたかも存在しないかのごとくである。
・・・・・・」

こうして、月報にして3頁の文のしめくくりはというと

「・・・・思うに、われわれはこの変転きわまりない
現代世界に生きている以上、大切なことは、
自分はいかなる状況の中にあるかを明らめ、
その中で人間として正しく生きるべくいかに決断するか、
ということである。自分はどちらにつくかという態度を、
狂信にはよらずにきめることである。・・・・」

読んでいて、私に思い浮かんだのは
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の
「『声』欄について」という2頁ほどの文でした。
うん。短いので全文引用しておきます。

「自由主義を守ろうとする竹山は『朝日(新聞)』紙上で
『危険な思想家』としてマークされた。

1968(昭和43)年、空母エンタープライズの佐世保寄港について
意見を求められた識者の中で竹山1人が賛成、
他の4人は反対と社会面に出た。

『原子力空母寄港賛成論を朝日紙上で語られた竹山道雄氏、
あなたはあの美しい『ビルマの竪琴』を書いた竹山さんでしょうか。
実に不思議な気がします』といった調子の感情的非難が殺到し、
竹山に答えを求める投書が次々と『声』欄に掲載された。

当時投書した人で存命の方も多いと思うが、今では
米国の原子力空母が横須賀に寄港しても反対の投書は
必ずしもするまい。・・・・・その論争も分析するに値するが、
ここで問題としたいのは竹山を狙い撃ちした『朝日新聞』
投書欄のアンフェアな操作についてである。

・・・問題なのは次の点である。
竹山が2月4日『感情論で解決できぬ』と答えた後も
『ビルマの竪琴論争』なるものは長く続いた。4月14日、
竹山は投書に答えた後『なお、多くの方々からのお尋ねに
一々返事をして、言論ゲリラのために奔命に疲れてはなりませんから、
それはしないつもりです』とつけ加えた。これに対して4月19日に
『許されるのか独立運動圧殺』と『対話の継続を望む』(鈴木氏)と
いう投書があり、竹山がさらに投書欄で答えることを求めた。

これに対して竹山はその日のうちに投書し返事は
常に問と同じ長さに書いた。—――

『私は対話を断わったことはありません。
また鈴木さんを〈言語ゲリラとあしらった〉こともありません。
ただ同欄の(許されるのか独立運動圧殺)という投書などは
あまりにも幼稚な意見で、これに短文で答えることはできません。

前に〈無学な田舎のかあちゃんにも分る言葉で〉説明せよと要求した
投書は、はたしてそういう人が自発的に書いたものかと疑いました。

週刊誌で根拠も示さない煽情的な匿名記事もありましたが、
このような不見識なことも行われているのですから仕方がありません。
ゲリラとはそういう類のことを指しました。事実に即して
論理を正したお説を教わりたいと願います』。


だがこの竹山のこの返事は『声』欄には採用されず、没書となった。
したがって竹山が『独立運動の圧殺』にも顧慮せず対話を断わった
という形で『論争』は終止符を打たれた。

これはフェアではない。
土俵に上げてくれない以上『声』欄に答えることはできない。
投書欄は係の方寸でどのようにでも選択される。

それが覆面をして隠れ蓑をきて行われるのだからどうしようもない。
日本における言論の自由とはこの程度だということを
世間はもっと自覚すべきであろう。」(p321~322)

このあとp324の【注】の形で、経緯をくわしく書かれておられます。
その【注】からも引用。

「竹山がミニコミ紙に書いた『「声」欄について』を読んで憤慨した
徳岡孝夫氏は『竹山論文をボツにした朝日新聞』を『諸君!』
昭和60年9月号で話題とした。すると10月号で『朝日』の
上野春夫「声」編集長が、担当者が自分の判断で投書を
選択するのはどの新聞雑誌でも同じだと弁明し・・・・」

これについては、
講談社学術文庫の竹山道雄著「主役としての近代」と
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和日本」が参考となります。

竹山道雄氏は1968(昭和42)年に
ひとりご自分の意見を述べ、声欄での投書でも
問と同じ長さの言葉で答えておられたわけです。

竹山氏の体験から、52年が経ちました。
朝日新聞という「異様な謎」は、現在
2020年では、解き明かされたでしょうか。



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昭和58年の京都旅行。

2020-04-14 | 京都
芳賀徹著「きのふの空」(中央公論美術出版)。
そこに竹山道雄追悼文は、4つの文が掲載されておりました。
どちらにも『時流』という言葉に触れておられました。

平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)を
本棚からとりだしてくる。すっかり内容は忘れておりました。
あらためてひらくと、本文の最後に芳賀徹の弔辞を引用して
おられるのでした。
そのあとの、「あとがき」には、こんな箇所があります。

「文章を書くとは選ぶことである。
選ぶからこそめりはりもつく。人生も選ぶことである。」(p491)

そのあとに

「・・・世の一部の人の反感を過度におそれるならば、
当り障りのないことしか書けなくなってしまう。
それでは自縄自縛である。私は『竹山道雄と昭和の時代』を
率直にありしがままに書きたいと思っていた・・・」(p492)

あとがきの最後には、
竹山道雄氏の夫人保子さんの消息でしめくくられておりました。

「2008年・・・私どもの家に移り老を養っている。
新聞を見て『(平川)祐弘さんの文章はわかりやすくていい』
などと依子にいっている。また『テレビはつまらなくなったが、
国会中継だけは第二次安倍内閣になって品が良くなった』
などともいっている。本書がつつがなく刊行され満97歳の
竹山夫人の手に無事に届けばよいがと著者は祈っている。
竹山は『ビルマの竪琴』の「あとがき」で屍を異国にさらし、
絶海に沈めた若い人々の名をあげた。従弟の田代兄弟も
何の形見もかえってこなかった。・・・・・2013年2月24日平川祐弘」
(p494)

あとがきの次は、竹山道雄年譜。
亡くなる一年前の年譜には、こうありました。

1983(昭和58)年 80歳
『竹山道雄著作集』全8巻が福武書店から刊行された。
秋、夫人保子、娘依子と婿平川と一緒に京都へ二泊三日の旅をした。
日本芸術院会員に選ばれた。菊池寛賞を受賞した。


本文には、その京都についての記述もありました。
その箇所を引用。

「1983(昭和58)年『竹山道雄著作集』が完結した年の秋、
竹山夫婦と私たち夫婦と四人で京都へ行った。

竹山としては見納めのつもりであったろう。
東寺(とうじ)からはじまって三十三間堂、養源院、
清水寺、鳥辺野、六波羅蜜寺などを丁寧に見てまわった。

あれから30年近く経ったいま妻に
『あの時どこがいちばん印象に残った?』
とたずねたら『六波羅蜜寺』と依子は答えた。
私もそうだと思ったが、よくきいてみると
依子は鬘掛地蔵から、
私は空也上人像から感銘を受けたのだった。

人間は同じ六波羅蜜寺へ行き、同じ彫像を眺め、
同じ説明を聞いても、自己の主観にしたがって、
このように別箇の印象を記憶に留める。

いや同じ鬘掛(かずらかけ)地蔵を見ても、
新潮社版『京都の一級品』の正面から写した写真と
『竹山道雄著作集』第八巻の地蔵を左斜めから写した写真
ーーそれだと左手に握りしめた鬘がなまなましく浮び出て見えるーー
とでは印象が著しく異なる。

竹山は六波羅蜜寺の清盛像、運慶像、湛慶像にふれた後
『さらにここに驚くべき彫刻がある。それは空也上人の肖像である』
と次のように記述している・・・・」(p417)

はい。ここまでにします。
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「先生への弔辞」

2020-04-13 | 道しるべ
橋本五郎さんの、芳賀徹追悼文が印象に残ります
(読売新聞4月4日掲載)。
はい。文章が良いと、文中に本の紹介があれば、
つい、その本を手に読んでみたくなります(笑)。
それが、ネット古本で簡単に手に入るとなれば、
なおさら欲しくなる。それで古本をとりよせたのが
芳賀徹著『きのふの空』(中央公論美術出版)。

そのなかに「竹山道雄先生への弔辞」
(「諸君!」昭和59年9月)が載っておりました。
単行本で6頁ばかりの文です。

うん。そこから引用することに。

「先生は私どもから本や論文などをお送りすると、
やがてきっとお手紙を下さって、あの筆圧の強い、
意外に昔風の書体で、批評やらはげましやらを
書いて下さったのです。・・・」(p190)

「古きよきものを私たちに伝えて新しい世界に送り出そうと、
ほんとうに精魂を傾けて教育と研究に当っておられました。」

「時代がどのように動いていっても、先生を囲んで
お話ししていると、問題がはっきりと見えてきて、
そこを行くべき道さえ見とおされてくるような気がするのでした。」

「三十数年にわたる先生の教えと知的示唆とにお答えする仕事を、
私たちもようやくこれからお見せすることができるかと
思っておりましたのに、先生は足早に去ってしまわれた。」

こうして、橋本五郎さんが引用されていた
竹山道雄氏の言葉が、この弔辞に使われているのでした。

「時流を恐れるな、時流から隠遁するな、時流を見つめよ、
しかし時流に惑わされるな、時流をこえて人間と世界を思え、
そのために歴史を学べ、古典に触れよ、コレㇽリの音楽にも
海北友松の絵にも、神魂(かもす)神社の建築にも
おののく深い広い心をもて・・・・
先生は御著書を通じてこれからも日本人に、
世界の人々に、そう説きつづけてゆかれるでしょう。」
(p193)

うん。こうして追悼文の全文を読んでおりますと、
ひとつ、気になったことがありました。
『歴史に学べ、古典に触れよ』とあるのですが、
ふつう、私なら、こういう言葉を使うとなると、
『古典を読め』とかになるのですが、ここには
『古典に触れよ』とある。

以下それについて思い浮かんでくることがありました。
この弔辞のはじまりは

「先生に最後におめにかかったのは、ちょうど
ふた月前の4月30日でした。・・・・・・
私はその数日前に出たばかりの自分の著書を
先生に献上するために、その日うかがったのでしたが、
実はその本もいまから23年前、同じようにして鎌倉で
先生のお話をうかがっていたとき、先生がふと与えられた
ヒントから出発して、長い間右往左往して
ようやくできあがった研究でした。」(p189)

はい。この弔辞が書かれたのは昭和59年。
芳賀徹著『絵画の領分』は、昭和59年4月30日発行。

『絵画の領分』の、あとがきにそれはありました。

「あれは昭和36年の夏、鎌倉瑞泉寺で、
先生を囲む小研究会を催していたときだったろう。
本間長世や高階秀爾もいた席で、私が『プロシャにおける岩倉使節団』
について報告したのであったと思う。すると竹山先生は、
そのあとの閑談のなかで、金刀比羅宮で見て来られて
間もなかったらしい高橋由一について、『あれは面白いものですな』
といったことをなにか二言三言いわれたのである。

(念のため、いま古い手帖を探しだしてきて調べてみると、
はたしてそれは同年8月26日の土曜日。その日、平川祐弘と
私は信州蓼科の旅先から鎌倉の寺に半時間遅れて駆けつけたのであった。

『瑞泉寺ノ夕景絶佳。満月雲ナキ空ニ昇ル。料理ヨシ。
・・・竹山氏、高橋由一論他、明治問題ニツキ教示多シ』

とその日の私の手帖にはある。)

それがヒントとなって、私は同年秋には
すでに由一研究に懸命になっていた。・・・・」


はい。私はこのあとがきで、もう満腹(笑)。




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「歴史を学べ、古典に触れよ」

2020-04-12 | 古典
すこし前になりますが、印象深かったので
もう一度書いてみます。
読売新聞の連載「五郎ワールド」(4月4日)で橋本五郎氏は
亡くなられた芳賀徹氏をとりあげておりました。

その最後の方で、橋本さんは
「私が芳賀さんに最も惹かれるのは、師竹山道雄に
対する憧れと畏敬と感謝の気持ちです。」と指摘しながら、
竹山道雄氏の言葉も引用されておりました。それが

「時流を恐れるな、時流から隠遁するな、
時流を見つめよ、しかし時流に惑わされるな、
時流を超えて人間と世界を思え、
そのために歴史を学べ、古典に触れよ」。

という箇所でした。
はい。『歴史に学べ、古典に触れよ』といえば、
思い浮ぶのは東日本大震災の際に、
これはなんなのだろうと、吉村昭の本や
清水幾太郎・寺田寅彦などの文庫を買って、
そして方丈記をはじめて最後まで読みました。

今回。武漢発の新型コロナウイルスでは、
何を読んだらよいのかと、それなりにさがすのでした。
さて、そうすると、新聞雑誌で、古典の紹介があります。
まずは、イタリアの古典『いいなづけ』がありました。
文藝春秋の磯田道史氏の文では
速水融(あきら)著『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』と
石弘之著『感染症の世界史』をあげておりました。

石弘之氏のは、文庫本にあるようですが、現在品切れ。
速水氏の本は、古本で8000円以上するので手がでません(笑)。

今日の産経新聞(4月12日)では
「新聞に喝!」欄の正高信男氏の文に
村上陽一郎著『ペスト大流行』を紹介しておりましたが、
これ新書ですが、古本でも倍の値段なので買わずに(笑)。

産経の読書欄では渡辺利夫著「台湾を築いた明治の日本人」が
紹介されておりましたが、これ新刊で1700円+税。
うん。これも注文はしません。

今月だけ購読している読売新聞の今日一面は
北岡伸一氏の『地球を読む』。それは

「新型コロナウイルスの感染拡大によって、改めて
注目を集めた人がいる。後藤新平である。・・」

とはじまっておりました。
せっかくなので、最初の方だけ引用

「後藤は1895年(明治28年)、日清戦争の終了後、
日本に帰還する兵士の検疫業務の責任者となり、
これを成功させた。

通常、戦争では戦死よりも病死が多い。
74年の台湾出兵の時、戦死者12人に対して
病死者は561人だった。

軍人・軍属5990人のうち罹患者はのべ1万6000人で、
一人平均2.7回も病気にかかった。
日清戦争からの帰還兵は24万人と予測され、
戦勝で意気盛んな大量の兵士に検疫を受けさせることは、
容易でないと見られた。しかし、後藤は陸軍の実力者だった
児玉源太郎陸軍次官の強い支持を受けて、これを引き受け、
取り組んだ。・・・・」

読売新聞の「本のよみうり堂」には
「新型コロナ読書対談」上、がはじまっておりました。
興味深いけれども、紹介されている本に触手が動かない。
うん。私はいいや。

こうして、「歴史を学べ、古典に触れよ」との指摘が、
「時流に惑わされない」羅針盤とは、なるのですが、
うん。だからって、私が買うとは限らないわけです。

あれこれ紹介されている本ですが、
とりあえずは、こうして書名列挙。
あわてれば高価な積読となる予感。
まずは、忘れないように覚書きです。







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後藤新平を抜擢(ばってき)。

2020-04-11 | 先達たち
月刊雑誌Voice5月号の巻末コラム。
渡辺利夫氏の連載です。
日清戦争での後藤新平の業績をとりあげております。
途中から引用。

「日清戦争に勝利し凱旋する兵士の検疫事業は不可欠であった。
・・・罹患(りかん)した兵士を検疫なくして帰還させるわけにはいかない。

往時の陸軍次官の児玉源太郎は、そのために後藤を抜擢(ばってき)、
広島宇品(うじな)の似島(にのしま)、大阪の桜島、
下関の彦島(ひこしま)の三つの離島に検疫所を設置、

似島では3ヶ月間に441艘の船籍、13万7000人の検疫を展開した。

ドイツ留学時代に起居をともにした北里柴三郎の協力により
大型蒸気式消毒罐13基を導入してことにあたった。

後の記録によれば、3つの離島で罹患が証明された兵士の数は、
コレラ682人、腸チフス126人、赤痢179人であった。

この数の罹患者が検疫なくして国内の各地に帰還していった場合
の事態の深刻さはいかばかりのものであったか。

戦争に明け暮れていた欧米列強は、児玉・後藤の検疫事業に
大いに関心を寄せていたが、その迅速性と効率性に舌を巻いたらしい。
・・・ドイツ皇帝のヴィルヘルム二世は・・
その大成功に賛辞を惜しまなかったと伝えられる。

相馬(そうま)事件という奇怪なお家騒動に巻き込まれて
内務省衛生局長を辞し、浪々(ろうろう)の身をかこっていた
後藤はかくして復活。新たに台湾総督として赴任する
児玉に同道、総督府民政長官として植民経営史に
その名を残す・・・・・・」


雑誌Voiceの巻末コラムといえば、
谷沢永一の『巻末御免』が思い浮かびます。
うん。そのバトンがこうして引き継がれてる。

ちなみに、先月号のVoice4月号の巻末コラムからも
この機会に引用しておくことに。
そこでは、後藤新平の思想ということで語られておりました。

「後藤新平という官僚政治家がいる。・・・・
政治家の思想であれば、それが現実にどういう関わりを
もっていたかという観点が重要になろう。この観点からして
後藤は高く評価されるべき存在だと私は考える・・・・

後藤の台湾統治とは、思想と現実の見事な一致であった。

後藤思想の出発点であり、到達点ともなったフレーズが、
『人類モ亦(また)生物ノ1(ひとつ)ナリ』である。
人間とは『生理的動機』に発し、『生理的円満』を求め、
生命体としての生をまっとうするために生きる、そういう存在だ。
ならば、台湾住民が生理的円満を得んとどのような環境の中で
生きているのか。このことを徹底的に調査・研究したうえでなければ、
台湾統治のための政策の立案や施行などできない。・・・・

総督府民政長官として台湾の民政を担わされた後藤は、
一代の軍政家・児玉源太郎を総督に仰ぎ、
その権威と権力のもとで存分に働いた。・・・・・」


うん。新聞の一面コラムばかりがコラムではありませんでした。



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感染症と磯田道史。

2020-04-10 | 道しるべ
磯田道史氏の雑誌掲載文
「『感染症の日本史』~答えは歴史の中にある」
を読む。11ページです。

どこから引用しましょう。
テレビニュースやワイドショー番組は敬遠して、
ユーチューブの対談番組を取捨選択している。
それが、私の今日この頃(笑)。

さて、磯田氏は、この文を書くにあたって、どうしたか?

「衛生政策で有名な後藤新平は、

『寝覚めよき事こそなさめ、世の人の、
 良しと悪(あ)しとは言ふに任せて』と詠みました。

この掛軸を懸けて、私は今、これを書いています。
緊急時のリーダーは世評は放置し、慈心良心に従って
断行する必要があります。・・・」(p105)

場所への注意があります。

「スペイン風邪の際、
学校、劇場、教会、大型販売店、娯楽施設などを閉鎖し、
葬儀や結婚式も禁止し、いち早く集会規制と行動規制を行った
米国のセントルイス市と後手に回った米国のフィラデルフィア市では
死亡率に大差が出ました。セントルイスは死者を半減できたのです。
この教訓からすると、
外出・集会の自粛は、経済的に苦しくても効果があります。

感染症の流行拠点になるのは、
病院、学校、鉄道、船、軍隊など、人が『密集』『移動』するところです。
100年前は連絡船の港=青森と貿易船の港=神戸で、
今は空港や駅の乗降客の多い東京が危ないのです。

新型コロナも、鉄道職員やバス運転手の感染が
いち早く報告されましたが、スペイン風邪の時も同様です。
まず兵士、学生、郵便局員、鉄道員、船員から感染しています。
当時の記事には『鉄道沿線各地に流行』とあり、人の移動とともに
流行が広がったことが分かります。・・」(p104)

当時の米国でも、行動規制を行った市と、それが後手に回った市
とでは違ったことが数値化されているのでした。

各市の間でも、違いがある。ということ、
省庁の間でも、違いがある。ということを以下に引用。

「今の自衛隊は、感染症対策が行き届いているようです。
新型コロナの感染者が出たクルーズ船で、軽装備で船内に入った
厚生労働省の職員は感染しました。感染症の担当省庁が職員を
守れなかったのは残念で、省幹部の指揮に問題があります。
一方、陸上自衛隊は見事で防護策を徹底し、一人の感染者も出していません。
感染症対策のノウハウを他の省庁とも共有してもらいたいものです。」(p105)

普段からの日本人の生活習慣への指摘も
明快にされておられます。

「日本が欧米より流行速度が遅いのは、
BCG接種率うんぬんも研究すべきですが、
日本人の生活習慣も一因でしょう。
我々は、手洗い、うがいをし・・。

マスクも着用し、単体のウイルスは微細で
マスクを通り抜ける大きさですが、微量なら、
人体は自然免疫でやっつけます。自分の咳を
飛ばさず、他人のウイルス飛沫の大きな塊を
カットするのでマスクは有効です。

我々は『お辞儀の文化』で・・・
土足で家に上がるのが西洋の文化ですが、
日本人は玄関に靴を脱ぎ、コートも大抵は入り口にかけ
・・・さらに消毒をやれば、感染防止効果は大きいはずです。

こうした生活習慣は、古くからの日本文化に根づいています。
手洗いする『禊ぎの文化』と『内と外』を峻別する『ゾーニング文化』
です。・・・これが感染抑止に効いているのかもしれません。
・・・」(p106)


うん。この磯田道史氏の文は、今日発売の文藝春秋に
掲載されておりました。私の引用はたどたどしいので、
本文を直接読んでいただきたいのですが、
うん。もう一ヶ所引用させていただきます。

「・・鎖国下でも『天然痘』や『コレラ』などが
侵入してきました。今から約200年前の1822年、
コレラの世界的な大流行が日本をも襲いました。
・・・オランダ商人が持ち込んだことが分かり、
音訳して『酷烈辣(これら)』『狐狼狸(ころり)』
などと称されました。・・・・・

1858年に、コレラが、再び日本を襲いました。
この時も長崎に寄港した『ペリー艦隊』から
感染が広がっていて・・・・・
攘夷思想の背景には『西洋=病原菌』とみる状況があり、
これが日本史を動かすエネルギーになった面があります。

この時、コレラと闘った幕末の蘭学医たちの気概には頭が下がります。
洋学塾を開き、天然痘予防に貢献した緒方洪庵は、
『事に臨んで賤丈夫となるなかれ』と弟子たちを鼓舞。
弟子たちは往診に奔走、死者も出ました。洪庵のもとには、
『誰々が討ち死』という手紙が続々と来ました。

感染爆発時に、医者は、最前線に立たされます。
火事の時に消防車が危ないからと出動しないことはありません。

・・・教訓があります。
『プライマリケアの防護』、最初に診察する医療者の防護が重要です。
防護服やN95マスクなど医療資源を適切に配分して
医療者と病院を守る策を立てねば・・・・

イタリアでは、こうした防護が不充分で、多くの
医療関係者が感染し、病院が流行の拠点となり、
『医療崩壊』が起きて、多くの死者が出てしまいました。」
(p100~101)

はい。私の引用よりも
雑誌を買って読まれることをおすすめ。
「文芸春秋」5月号は960円で本日発売。
本文は、私の紹介よりも十倍の内容量。

(磯田氏の講演会へ行かれた気分でもって
読まれると960円も無駄にならないですよね)

私は、磯田道史氏の文だけ読みました。
はい。これで十分(笑)。
また、あらためて、読み直すことにします。

注・・・『賤丈夫(せんじょうふ)』とは、心のいやしい男のこと。




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青い晩春の空。

2020-04-09 | 詩歌
古本でも値段が張るのを、時には買っております。
はい。それが何か賭け事でもしている気分となり、
私なりのストレス解消法となっている気がします。
まあ、そうして自分に言い聞かせております(笑)。

昨日届いたのが、芳賀徹著「きのふの空」
今日届いたのが、
芳賀徹著「詩の国 詩人の国」
芳賀徹著「与謝蕪村の小さな世界」
芳賀徹著「絵画の領分」
潁原退造編「蕪村全集」全(有朋堂書店・大正14年)

このなかで、一番高価だったのは
「蕪村全集」全で4000円+送料520円=4520円。
これは昭和4年の再版本です。
ひらくと、蕪村全集には芥川龍之介の序文がある。
そのはじまりは、

「わたしはあなたの蕪村全集を人一倍切に待ってゐます。」
・・・
・・・・・・・わたしはあなたの蕪村全集を得たらば、
かう言ふ智的好奇心の為に夜長をも忘れるに違ひありません。
それは智慧の輪と言ふ玩具を貰った子供の喜びと同じことであります。」

へ~。とこんな序文を読んでから、
私はすぐに読むわけでもなく、本棚に納めます。

さてっと、今回引用しますのは、
「詩の国 詩人の国」というエッセイ集から、
引用。それは題名となった箇所でした。
「 詩の国 詩人の国 --- 大岡信『折々のうた』 」
その文のはじまりは

「   葉桜の中の無数の空さわぐ  篠原梵


この句を読んでいるとーーー自分のからだが
頭の方からしだいに緑に青に染まってゆくような気がする。
葉桜の季節のよろこびが体内に湧きのぼってくるような気さえする。

大岡氏が解説しているように、
『初夏、花の去った後の葉桜が、
風に揺れて透かして見せる〈無数の空〉』なのである。
 ・・・・・・・

『無数の空』とも、それが『さわぐ』とも、
実にみごとに言い切ったものである。
このように言われてみると、葉桜とはまさに
そういうものであることに、あらためて気がつく。
誰でも一度はそのような葉桜の下に立って、
葉ごしにさわぐ青い晩春の空を仰いだことが
あったことを思いだす。あるいは、そのような
経験があったような気がしてくる。大岡氏は
『ありふれた光景を、よく吟味された言葉を
通過させることで新鮮にとらえ直すのも、
詩歌の一つの働き、役目だろう』とも書いている。

この句についてはとくにそう言えるだろう。
いい俳句とは、いわば『コロンブスの卵』なのだ。
言われてみると、一つの光景が動かしようもなくぴたりと
きまって、そこに物の本質があらわになっている。

大岡氏がこの句を『朝日新聞』のコラムに紹介して、
はじめて私はこの句を知り、篠原梵という俳人を知った。
芭蕉以来今日まで、何十万の俳句が作られてきたものか
見当もつかないが、そのなかから一粒のダイヤモンドを
ひょいとつまみあげて示してくれたという感じであった。
・・・・・」(p156~157)

はい。ここだけ読めば私は満腹。
本を閉じて、本棚へ。

まだ、桜の花が見られるのですが、
葉桜の方へと私の気持ちは移ります(笑)。

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一山(いっさん)青し。

2020-04-08 | 詩歌
注本してあった古本が届く。
芳賀徹著「きのふの空」(中央公論美術出版・平成4年)。
定価は3600円。古本で500円+送料300円=800円。
古本屋は、古書ワルツ。うん。新刊なみの古本です。
はい。まだ未読です。

そういえば、芳賀徹著「詩歌の森へ」(中公新書・2002年)
は、詩歌を紹介する短文なのに、今回あらためて見ると、
京都がところどころに出てくるのでした。新書の著者略歴に
「現在、京都造形芸術大学学長」と出てくるので、
うん。自然とそうなるのかもしれません。
せっかくなので、パラリとひらいた箇所を引用。

「京都の町がいいのは、なんといっても、
東、北、西、と三方を山々に囲まれていることだ。
それらの山から流れ出た水が、二つの大きな清流となって、
町なかをぬけて南に走る。水音を聞きながら眼を上げれば、
川上にはいつも青々とかさなる山がある。
山々にくるまれた安らぎと、『山のあなたの空』へのあこがれと、
二つがともどもに心に宿る。人口140万の大都市では、
世界に稀有なことだろう。

ことに比叡山の中腹あたりから北を望むと、
鞍馬、貴船の峰々から奥へ、高くはないがすがたやさしい
丹波山地の山々が幾重にもつらなって、
その青い深さが心をさそう。
花背、雲ヶ畑などというすてきな地名も
いつ誰がつけたものなのか、まさにそのなかに
身を投げこみたくなるような緑のうねりだ。」

このあとに、詩歌をとりあげるのですが、
芳賀徹氏は、どんな詩をもってくるのか。

「  ほととぎすあすはあの山こえて行かう
   わが路遠く山に入る山のみどりかな
   分け入つても分け入つても青い山
   分け入れば水音

種田山頭火の
これらの『山行水行』の自由律の句が思いおこされてくる。
もちろんこれらは、詩人が生家の相つぐ不幸を経験した後に、
・・・・墨染めの衣に網代笠(あじろがさ)の乞食(こつじき)僧と
なって南北東西を放浪しながら作った句である。
いまの私たちがまねできるような旅ではないし、
京の山をよんだ句でもない。だがそれでも、
緑濃い山々に入ってゆくときの心おどり、
踏み入る一歩一歩に世事への執着を放下(ほうげ)した
緑に染まってゆく心身のかろやかさ、またさびしさを、
私たちはここに読み、共感することができる。」

うん。短いので残りの全文も引用しちゃいましょう(笑)。

「ところで、『分け入つても分け入つても』の句には、
『大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて、
行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出た』との前詞がある。
その前年に山頭火は熊本で禅門に入り、出家していた。
とするとこの句は、案外、唐の詩人羅鄴(らぎょう)の
一篇からとられたという禅語ーーー

 終日 長程(ちょうてい) 復(ま)た短程(たんてい)
 一山(いつさん)行き尽せば 一山青し

に学び、これに体験のリズムを与えたものであったか、
と私は考えている。」(p278~280)

はい。こうして全143章の詩歌が並ぶ壮観。
1章1章に立ちどまってしまい、最後まで読み続けられません(笑)。



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冬ごもり。

2020-04-07 | 手紙
本棚から芳賀徹著「詩歌の森へ」(中公新書)を出してくる。
以前に読んで圧倒され、あとで再読しようと本棚に置いて。
はい。それっきりとなっておりました(笑)。

あとがきをひらくと、こうはじまっておりました。

「この本に収めた『詩歌の森へ』全143章は、もと
『日本経済新聞』の毎日曜の文化欄に連載したものである。
連載は平成11年(1999年)4月4日から
同13年(2001年)12月30日まで、2年9ヶ月におよんだ。」

「『詩歌の森へ』は、はじめ私なりの日本詞華選を編めばよいのだ
と考え・・自分のこれまでの読書体験や研究生活のなかで
めぐりあった詩歌で、とくに好きになって愛誦している作品、
あるいは日本詩歌の歴史の上でとくに面白いと思った作品
・・・それに若干の評語や感想をそえれば・・と考えていた。
それも、大岡信さんの『朝日』紙上の『折々のうた』のように
毎日の連載で永遠につづくというような途方もないことを
するわけではない。・・・」(p350)

本には、以前読んだ際の付せんが多く貼ってあって、
ずいぶんに気になったのだろうと思うのですが、
はい。内容はすっかり忘れております(笑)。
それでも、充実した読書の後味は残っております。

さてっと、パラパラとめくると、ところどころに
京都という地名が登場しているのに気づく。

それはそうと、二カ所を引用。

はじめに、『冬籠り』。

「『日本経済新聞』俳壇の『1999年の秀作』に、
藤田湘子氏選で『志ん生もカラヤンも好き冬ごもり』
という句が入っていた。前橋の原田要三というかたの作である。

思わず微笑した。東西文化の粋をたのしみながらの冬籠り、
うらやましいではないか。『志ん生もカラヤンも』とは
二十世紀日本人のみに許された特権。
『好き』という軽い言いかたも効いている。
冬籠りという万葉以来の古語、芭蕉以来の季語が
こうして二十一世紀に生きながらえるのはめでたい。」
(p98)


はい。二つ目は蕪村。そのはじまりは

「穎原(えばら)退蔵編『蕪村全集』という分厚い1冊の本がある。」

新聞の連載ですから短い、新書で4ページの文です。

「すばらしい書物だった。ことにはじめて読む蕪村の書簡は
・・・・・・・読みすすめるうちに私のなかには、はるかに遠い
徳川の日本、そして18世紀の京都への郷愁がしきりに湧いて、
しばし茫然とすることさえあった。


 春もさむき春にて御座候。
 いかが御暮被成(おくらしなされ)候や、
 御(おん)ゆかしく、奉存(ぞんじたてまつり)候。
 しかれば春興小冊、漸(ようやく)出板に付、
 早速御めにかけ申候。・・・・・・


たとえばこれは安永6年(1777年)、蕪村数え62歳の年の2月に、
彼の新体詩『春風馬堤曲』をものせた一門の新春句帖
『夜半楽(やはんらく)』ができ上がり、これを伏見の門人に
送ったときの添え状である。・・・・

ごく普通の時候の挨拶だったのかもしれない。
だがそれが『春もさむき春』から3つの短文の
畳みかけで言われるとき、そこにおのずから
相手へのこまやかな、まさに慇懃(いんぎん)な
心づかいがにじみ出る。

『御ゆかしく奉存候』とは、蕪村書簡の愛用語。
本来の『御なつかしくも問はまほし』の意味での、
なんとすてきな使いかただろう。・・・」
(p240)

はい。再読も、パラパラ読みで、もう満腹。
また、本棚へ。






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北京大河ドラマ(武漢篇)。

2020-04-06 | 産経新聞
新華網が1月22日に掲載した見出しは
『Wuhan virus(武漢ウイルス)』と記されていた。

「記事は、湖北省武漢市で開催予定だった
女子サッカーの五輪予選会場が『武漢ウイルス』
流行のため南京に移されるとの報道だった』

『その後も共産党の機関紙、人民日報系の環境時報が、
複数回にわたってこの俗称を使っていた・・・・

それが、いまになって、中国当局が
『武漢ウイルス』と聞いて怒りのポーズをとるのは、
北京が政策を大転換したからに他ならない。
自己都合の豹変(ひょうへん)は兵家の常である。』

『不都合な真実を隠そうとするのは、全体主義の本性なのだ。
いらだちの矛先はまずメディアに向かった。米3紙の記者追放』


以上は、産経新聞4月3日「湯浅博の世界読解」からです。
湯浅氏による中国の大河ドラマは、ここからの豹変を記載します。

3月にはいってから新華社が4日に
『世界は中国に感謝すべきだ』として、珍妙な論説を流し始めた。
・・・・・・さらに論説は・・・報復として医薬品の対米輸出を禁止し、
【米国をコロナウイルスの荒海に投げ込む】と恫喝した。
さすがに、共産党は脅しの語彙が豊富である。

確かに、米国の医薬品はどっぷりと中国に依存しており、
・・・・中国は抗生物資、鎮痛剤など世界の医薬品有効成分の
40%を生産しており、米国は抗生物資の80%を中国から輸入している。

論説は結論として、中国が世界に
ウイルスと闘うための貴重な時間を与えたのだから、
【米国は中国に謝罪し、世界は中国に感謝する必要がある】
と倒錯した論理を用いる。・・・
詫びるどころか恩に着せる。』

北京の大河ドラマ。その物語はここから展開します。

「物語の最初のページは3月10日、習主席の武漢視察から始まる。
視察が近づく頃から、感染者の発表数が減っていく。・・・

いわば、
第1段階のウイルス【隠蔽の敗者】から
第2段階の【制圧の勝者】への転換工作である。

実はこれより前、ウイルス対応で国内批判を浴びていた
習主席は、中国を【中傷する者たち】を攻撃するよう
当局者に指示していたことが、やがて明らかになる。
その中には、当然、米国も入る。

トランプ米大統領が【中国ウイルス】と言い、
ポンぺオ国務長官が【武漢ウイルス】と呼ぶと、

共産党政治局員の楊潔篪(ようけつち)氏が
【中国に汚名を着せようとしている】と怒り、

外務省の耿爽(こうそう)報道官が
【強烈な怒り】を繰り返す。

趙立堅(ちょうりつけん)報道官が根拠のない
米軍によるウイルス漏洩の陰謀論を吹かしたのも、
この流れの中にある。

これにより、国内の習批判派に対しては
【中国の敵を助ける裏切り者】と退ける構図ができた。

自由主義のような失政の透明化は苦手でも、
全体主義には初動の失敗を偽装する
新しい物語をつくるのはお手のモノだ。」

はい。本文を読んでいただきたいのですが、
産経新聞を購読されている方は、これが読める。
産経新聞を購読されない方は、これが読めない。
せめて読めない方々に、紹介がてら引用しました。
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自国を卑下せず、強がりもいわず。

2020-04-05 | 産経新聞
産経新聞を購読してますが、
こういう御時世は、もう一紙。
読売新聞を購読することに。
はい。4月だけ2紙購読です。

うん。新聞も慣れないと読みづらい(笑)。
でも、4月4日読売に連載「五郎ワールド」を読めた。
うん。読めてよかった。
ここでは、芳賀徹氏の死去をとりあげておりました。
平川祐弘氏の小冊子に載った追悼文からの引用がある。
その追悼文の引用を、あらためて再録すると、

「俳人蕪村、蘭学者玄白、画家由一などに温かい光をあて、
きめ細かく論じました。自国を卑下せず、強がりもいわず、
仏米からも韓国中国からも古今の日本からも
良いものをとりいれ己れの宝としました。

手紙に限らず、丁寧に推敲された芳賀の文章は
言語芸術として香り高い。絶品です。しかし
徹という人間はさらに高雅でした。私どもは
君の如き優れた人を友とし得たことを
生涯の幸福に数えます。」

こう橋本五郎さんは追悼文から引用されております。
さてっと、この日の連載は、どう締めくくっておられたか。

「私(橋本五郎)が芳賀さんに最も心惹かれるのは、
師竹山道雄に対する憧れと畏敬と感謝の気持ちです。」

こうして今度は、芳賀徹氏が悼む師への言葉を引用して
おられました。

「竹山先生は『高貴な行動的知識人の一人であった。・・
〈連帯〉を好まぬ、孤高を辞さぬ精神的行動派だった。』

『時流を恐れるな、時流から隠遁するな、
 時流を見つめよ、しかし時流に惑わされるな、
 時流をこえて人間と世界を思え、
 そのために歴史を学べ、古典に触れよ』。」

こう引用されたあと、橋本さんは最後に

「それはそのまま芳賀さんや平川さんが師から与えられた
精神的遺産として実践し続けているように思われるのです。」

2紙をとれば、嬉しいことあり。
4月3日産経新聞の正論欄には平川祐弘氏の文。
うん。その文の最後を引用しておきます。


「イタリア文学の名著は『神曲』を別格として
『デカメロン』と『いいなづけ』だが、強制された
隔離は古典の読書で過すにかぎる。
・・・・・・・
疫病は個人の運命ばかりか国の運命も左右する。
・・・・・・・
北京は、非難が習近平政権でなく米国に向くよう
反米感情を煽る世論操作に出たらしい。これには
さすがに呆れた人も中国内にいて
『不要瞼(プヤオリエン)』(恥知らず)とネットに出た。
武漢の骨つぼの数は発表された死者の数より何倍も多い。
コロナ禍との戦いは、民主的自由国家と強権的専制国家と
の戦いの一環に化しつつあるようだ。」

産経新聞4月4日の「田村秀男の経済正解」は
こうはじまっておりました。

「地球は新型コロナウイルス・ショックに覆われ、
すべてが逆さまに見える『鏡の国のアリス』の世界と化した。

パンデミック(世界的大流行)の中心は
発生源の中国ではなく、欧米となった。
全体主義国家の中国はウイルスをまき散らした元凶ではなく、
ウイルス感染対策に悲鳴を上げる各国に医療支援する
救世主のように振る舞う。

そこで設問。中国はコロナショックに乗じて
さらに膨張を遂げるのか。
拙論の答えは『ありうる』である。
 ・・・・・・・・
グローバリゼーションの下、カネは体制を問わず、
より高い利益が見込まれる国・地域に瞬時に流れる。
グローバル金融危機は対応に手間取る民主主義よりも
全体主義に有利に働く。」

はい。こうしてはじまる文でした。
うん。新聞は毎日読まないのですが、
読むのなら今ですよね。
一方に読んでますますわからなくなる新聞があり、
そういう新聞に、惑わされないよう注意を怠らず。
うん。こういう混乱時にはテレビが害になる場合も
あるのだと御自身で発想の転換をしてみる(笑)。

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平安京の疫病。

2020-04-04 | 京都
200円でした。1988(昭和63)年刊行の古本。
「京都自然紀行 くらしの中の自然をたずねて」(人文書院)
中島暢太郎監修 京都地学教育研究会編。
序文は、監修者が書かれており、こうあります。

「この本を書いているのは、京都府下の高等学校で
地学を教えている先生方です。地学という教科は、
教科書で教えるだけでなく、実地に自然を観察する
ことを大切にするという特色を持っています。」

うん。現在、高校地学の先生は、絶滅危惧種だと
雑誌で読んだことがあります。それと同時に
「実地に自然を観察することの大切さ」が
高校から消えてしまったのかどうか?

それはそうと、序文を続けさせてください。

「・・・柿本人麻呂の

   あしひきの山川の瀬の響(な)るなへに
     弓月(ゆつき)が獄(たけ)に雲立ち渡る

は上流の山に積乱雲がそびえて雷雨が降っているため
谷川の水が音を立てて増水してきたという気象現象をあざやかに
示しています。私たちもこのような表現力を駆使したかったのですが、
そこまで力が及ばなかったのが残念です。」

はい。素敵な序文となっておりました。
さてっと、目次のはじめの方に、「祇園祭と疫病」とある。
うん。そこから引用してみます。

「祇園祭の由来にも表われているように、
平安京千年の歴史には度々疫病が流行しています。

記録に残る最初は大同3年(808)1月で、疫病が
今でいう何の病気に当たるかはわかりませんが
強力な伝染病の一種であったと思われます。
当時、京の町は疫病で倒れた人々のおびただしい
屍で埋まるという、思いもよらぬ有様だったようです。

貞観3年(861)8月には赤痢が流行し、10歳以下の
子供たちがばたばたと倒れていきました。
同5年1月には流行性感冒が襲い、同14年、同18年、
延長7年(929)、天暦1年(947)、同9年と疫病流行が相次ぎました。
正暦5年(994)5~6月のかつてない大規模な疫病の流行の時は、
堀川の水が死人によって溢れるほどになったといいます。・・・・・
この疫病の死者は、五位以上の貴族だけで67人に及びました。
また、疫神が横行するという噂によってみな門戸を閉じ、疫神を
船岡山に祭って今宮社とし、御霊会を行なったと記されています。」
(p20)

その前のページから引用します。

「今では京都最大の観光行事となっている祇園祭が
八坂神社(通称祇園さん)の祭礼で、正式には
『祇園御霊会(ぎおん ごりょうえ)』と呼ばれている
ことはあまり知られていないようです。

御霊というのは死者の霊魂のことですが、
天災や疫病、戦争などのため非業の最後をとげ、この世に
怨みを残して死んだ人の霊魂をいうことが多いようです。
 ・・・・・・
政争の犠牲者が怨霊となり、度々疫病が流行するのは
その祟りであると考えられました。これらの御霊を鎮めるために
行なわれたのが『御霊会』で、貞観5年(863)5月20日に神泉苑で
行なわれたのが最初のことです。・・・・・

八坂神社は、古くは祇園社・感神院と呼ばれ、
延長4年(926)6月、修行僧が建立した祇園天神堂が
始まりとされています。・・・・・
祇園御霊会が初めて行なわれたのは貞観11年(869)で、
天下に悪疫が流行したとき、勅命によって66本の鉾を作って
神泉苑へ送ったと社伝に記されています。
100年後の天禄1年(970)6月14日、朝廷によって・・・・
祭礼が行なわれ、以後毎年の催しとなったといいます。

平安末期以後朝廷の力が衰えるのと反対に、
祭りは民衆の手で盛んになっていきます。
応仁の乱の頃は一時中断しましたが、その後再び盛んになりました。
山鉾の前掛・胴掛・見送などに外国からのゴブラン織や
綴錦(つづれにしき)が使われたり、名工の彫った人形や飾りが
多く、動く美術館と呼ばれているほど豪華になったことからもうかがえます。」
(p19~20)

地学とは、別の箇所を引用してしまったかもしれません。
せっかくなので、この本の「おわりに」からも引用。

「この本の執筆者が属する京都地学教育研究会は
昭和24年に数人の高校教師によって設立されました。
そして40年を経た今、京都府下の高校教師を中心として
約90名の研究会に成長しています。私たちは・・・・・
この『京都自然紀行』の発刊を思い立ちました。・・・」


うん。高校の地学教師が輝いていた頃の一冊なのですね。
最後に、43名の執筆者・編集協力者の氏名と、その高校名が
記されておりました。はい。ここにはその高校名を列挙してみます。

福知山高・嵯峨野高・綾部高・東稜高・八幡高・桃山高・久御山高・山城高
綾部高・立命館高・聖母学院高・西舞鶴高・園部高・精華高・北稜高
洛東高・西宇治高・南丹高・洛水高・北嵯峨高・東宇治高・日吉ヶ丘高
京都女子高・平安高・洛水高・須知高・南丹高・加悦谷高・山城高
光華高・東山高・福知山高・立命館高・洛東高・南八幡高・桃山高
峰山高・東山高・光華高・元堀川高定・堀川高・木津高・北稜高。

数頁だけ、パラパラ読みするのは申し訳なくなります。
またの機会に、読もうと思いながら、本棚へ戻します。









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砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行。

2020-04-03 | 地震
昨日の産経抄(4月2日)に
「歴史学者の永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』によれば」
とある。それで集英社新書のその本をひらいてみることに。

この新書の「まえがき」は、こうはじまります。

「この書物は、富士山の宝永大爆発という空前の
巨大自然災害と、それにともなう社会問題の諸相を
できるだけリアルに描きだそうとしたものである。
飢餓・流亡はその日から始まり、他方では
幕府と藩、役人と商人とのあいだの権力と
カネをめぐる駆け引きも微妙かつ活発となった。

被災地民衆は追いつめられる中で、
時には村と村、時には一つの村のなかでさえ対立し、
人間不信に陥りながらも、不屈で息の長い復興の
たたかいをくりひろげていった。・・・・」(p8)

はい。真ん中をはしょって、最後の方を読むと、
そこに、気になる人物が要約されておりました。
「砂除川浚(すなよけ かわざらい)奉行
 伊奈忠順(いな ただのぶ)」。

江戸時代の中頃の1707年に起きた『宝永噴火』を
この新書はあつかっております。

「・・災害は複合的にふくらみ、先の見えない困難な
状況が深まりゆく中で、救済・復興策の全責任を負って
登場したのが関東郡代伊奈忠順(いなただのぶ)であった。

忠順は砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行として
宝永5年(1708)閏1月から死去する正徳2年(1712)まで4年間
その任にあり、この間、職制上勘定奉行荻原重秀の配下にあった。」
(p253)

順を追うと長くなるので、飛ばしてゆきます(笑)。

「就任から1年半近くもたとうとする宝永6年5月から6月に
なってのことである。・・・忠順の主導による救済の具体策が
打ち出されるのは、巡検後の同年後半のことである。・・・
連鎖的に拡大した災害によって情況は日増しにきびしくなっていたが、
忠順はむしろ慎重に策をねったらしい。・・・・・・・・・・

忠順は現地で直接住民の声を聞くとともに、数々の訴えを
書面にして会所に提出させ、十分に検討した。その上で
9月に開かれた荻原重秀屋敷での勘定所内談に、忠順は
御厨地方の村々の代表3名を伴って主席し、重秀以下の
役人たちに直接、住民の苦しみの声をきかせた。
この異例の会議を経て12月、忠順は住民が切望していた
砂除金の給付を正式に決定したのである。

この措置が、御厨住民たちにどれほど明るい希望を与えたかは
推測に余りある。それは支給される砂除金の金額の問題というより、
伊奈奉行が、住民の訴えを前例のない方式で実現してくれたことが
大きな意味をもったのである。住民たちは伊奈忠順という人物の、
それまでの接した役人たちとは大きくちがう誠実さに心打たれた
のだと思われる。」(p254~255)

さてっと、この新書の本文の最後をめくると
こうあるのでした。

「幕府が全国から徴収した高役金48万両余のうち、
降砂被害の大きい駿・相・武三国へ、伊奈半左衛門を通じて
直接下付された御救金はわずかに6225両であった。
須走を入れても1万両未満である。
御厨地方の農民は自力で生きぬいたのである。
幕府の政策的判断でおき去りにされながら、
御厨農民が伊奈忠順を祀る神社をたてた・・・」(p262)

うん。伊奈神社についてはp256にありました。
以下そこを引用しておわりにします。


「御厨の被災地では時とともに、
伊奈忠順への思慕・崇敬の思いが高まっていったらしい。
おそらく被災地住民が長い長い苦難の中から
一歩ずつ明るさをとり戻してゆく中で、その気持ちは
しだいに感謝の念に高まっていったのであろう。

御厨地方では慶応3年(1867)・・・忠順を祀る伊奈神社を
設立することとし、吉久保村の水神社境内にこれを建てた。
水神社は御殿場方面から小山・谷ケ(やが・谷峨)方面に至る
古道のほとりにある。その後伊奈神社は須走村にも建てられ、
二社はそのまま今日に続いて祀られている。・・・」
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畏(おそれ)を覚えればすぐ。

2020-04-02 | 道しるべ
武漢コロナウイルスに、個々人で対するのに
咳エチケット。手洗いという呼びかけがあります。

うん。本棚からとりだしたのは、
司馬遼太郎著「この国のかたち 五」(文芸春秋)。
この第五巻は、「神道(しんとう)」からはじまります。
そのはじまりを引用。

「神道に、教祖も教義もない。
たとえばこの島々にいた古代人たちは、
地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも
底つ磐根(いわね)の大きさをおもい、奇異を感じた。

畏(おそ)れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、
みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。
それが、神道だった。

むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、
仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。
三輪(みわ)の神は、山である。大和盆地の奥にある
円錐形の丘陵そのものが、古代以来、神でありつづけている。
・・・」(「神道(一)」)


「この国のかたち」は月刊雑誌「文芸春秋」の巻頭随筆
として連載されたものでした。各題のもとに本にして
8頁ほどの文が続きます。つぎに「神道(二)」の
はじまりは、こうでした。

「神道の起源は、この島々にほのかながら
社会ができてからだともいえる。
しかも、いまなお神道は生きている。
初詣、夏祭、秋祭、祇園祭、山王祭、靖国参拝、
七五三の祝い、地鎮祭、神前婚儀、月参り、
合格祈願、式年遷宮といったことばを思い浮かべればいい。」

うん。つぎは、神道(三)のはじまり

「古神道というのは、真水(まみず)のように
すっきりとして平明である。教義などはなく、
ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在(おわ)す。
例として、滝原の宮がいちばんいい。
滝原は、あまり人に知られていいない。
伊勢(三重県)にある。・・・・」

神道と題して(一)から(七)までつづいております。
ということで、あとは(七)のはじまりを引用しておわります。

「神道という用語例は、すでに八世紀の『日本書紀』にある。
シントウと澄んでよむならわしは、平安時代にはじまるという。
理由は、日本語は元来、清音をよしとしてきたという程度だったろう。
『いろはにほへと』も、すべて清音である。和歌も、
明治以前はすべて清音だけで表記されてきた。
古音は、一般に澄む。

神道に教義がないことは、すでにふれた。
ひょっとすると、神道を清音で発音する程度が
教義だったのではないか。それほど神道は多弁でなく、
沈黙がその内容にふさわしかった。

『万葉集』巻第十三の三二五三に、
『葦原の瑞穂の国は神ながら 言挙(ことあ)げせぬ国』
という歌がある。他にも類似の歌があることからみて、
言挙げせぬとは慣用句として当時ふつうに存在したにちがいない。

神(かん)ながらということばは、『神の本性にままに』という
意味である。言挙げとは、いうまでもなく論ずること。
神々は論じない。・・・・・・・

くりかえすが、川や山が、仏教や儒教のように、
論をなすことはない。
例としてあげるまでもないが、日本でもっとも古い神社
の一つである大和の三輪山は、すでにふれたように、
山そのものが神体になっている。
山が信徒にむかって法を説くはずもなく、論をなすはずもない。
三輪山はただ一瞬一瞬の嵐気(らんき)をもって、
感ずる人にだけ隠喩(メタファ)をもって示す。

日本史は中世になって多弁になる。さまざまな階層の人が、
物語や随筆や仏教論などを書くようになった。
神道までが、中世になって能弁に語りはじめたのである。
・・・・」

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