和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

臨海学校

2024-12-16 | 安房
「庄野潤三の本 山の上の家」(夏葉社)に
庄野潤三長女の「私のお父さん」が載っておりました。
そこに「 夏の思い出 」があるのでした。

「 父は、10月に生まれた私に『 夏子 』と名付ける程夏が好きでした。
  それは、入道雲が湧き上り生命の躍動する様が好きという他に、
  海で泳ぐのが大好きだからです。

  帝塚山(てづかやま)学院の初代院長だった祖父の庄野貞一は、
  夏休みに全校生徒を臨海学校に連れてゆき、
  丈夫な体と心になるように遠泳させました。

  父は、夏になると自分の家族を引き連れて
  外房の海岸に行き、小さな宿に三日程滞在して
  朝から晩まで真黒になるまで遊ばせました。
  小舟を借りて沖を遠泳させられた事もあります。

  お蔭で私達姉弟は、魚のように泳ぐし、
  荒海もこわくありません。
  昼には、近くに住む近藤啓太郎さんのご家族が合流し、
  奥様の作られた豪快なお弁当をたいらげました。

  遊び疲れて帰る日には、太海駅前の田丸食堂の
  カツ丼をとどめにいただき大満足。
  どんな時でも食べる事がついてくるのが我家流です。 」(p71~72)


はい。まだまだ続くのですが、引用はここまで。
写真はそんなに多く載っていないのですが、
古い写真に夏子さんが写っていると、
大人たちに交じって、そこだけ清水が湧き出しているかのように
真っ白で真新しく思えてくるから不思議です。

この本には、最後に「 庄野潤三全著作案内 」があり、
初心者には、お誂え向きの著作コメントを読むことができます。
今日はさっそく、後半生の本の中から選び注文したところです。
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うたふべきことは

2024-12-15 | 詩歌
庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)の最後は、

「 庄野英二。私より六つ年上の兄で・・ 」

と兄さんを取り上げておられます。
庄野英二と庄野潤三の兄弟を思い浮かべると、
何だか、作品『 明夫と良二 』みたいです。

弟の良二が唄う場面がありました。

「 庄野潤三著『 絵合せ 』をひらいていると、
  良二が歌う場面がでてきます。


 『  ・・三月中ごろの或る晩、その良二が不意に
    ≪ サンタ・ルチア ≫をうたい出した。
  ついさっき会社から帰って、ひとりで遅い夕食を食べた姉の
  和子も細君も彼も、みんな呆気に取られた。
  歌は途中でとまったが、和子は、

 『 いいわ。いいわ 』といい、もう一回うたってと頼んだ。
 『 どうしたの、それ? 学校で習ったの。全部うたえるの、
   原語で。大したものね 』
  すると、良二は音楽の時間に女の先生がうたってくれたのだといった。
 『 教科書にのっているの? 』
 『 教科書にのっているのは、ただの日本語なの。
   それで先生が、その、イタリア語でうたって 』
 『 教えてくれたの 』
 『 そう 』              」


庄野潤三著「文学交友録」の締め括りに≪ うたうことは ≫とあります。
その箇所をここに引用しておきたくなりました。

「 チャールズ・ラムの『 エリア随筆 ≫の巻頭を飾る『南洋会社』は、
 年少の日にラムが半年ほど見習いとして勤めていた会社に寄せる思いを
 しみじみと語った随筆であるが、その中でエリアは当時の同僚であった、
 それぞれ変った癖の持主である現金出納係や会計係の何人かの
 横顔を紹介したあとに、

   『 うたふべきことはまだ沢山残ってゐる 』 (戸川秋骨訳)

 というところが出て来る。
 『 文学交友録 』の終りの章を書いた私にも、エリアと同じように、

   『 うたうことはまだ沢山ある 』

 の嘆きが残る。取り上げなくてはいけない人を
 落しているのではないだろうか。だが、
 もう終りにすべきときである。
 これでお別れすることにしよう。    」(p409・新潮文庫)


こうして連載は終るのでした。ここからあらためて、
良二が唄っている場面を、思い浮かべておりました。


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サンキュー・レター

2024-12-14 | 手紙
年賀ハガキをどうしようか?
ここ数年、最近はちっとも書いておりません。
それでも頂けば、返事がてら書きなぐりを投函。


さて、庄野潤三の著作を数冊読んだだけなのですが、
読み継ぐことは、そっちのけで、あれこれ思います。

たとえば、手紙をテーマに、庄野作品を展望する。
あれこれと、読み齧りの思いつきはひろがります。

ということで、庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)から、
坂西志保さんの箇所を引用したくなりました。

「『 庄野さん、アメリカで一年暮してみるお気持ちはありませんか 』
 といきなり訊かれた。それが始まりであった。・・・・ 」(p328)

吉行淳之介の箇所では、庄野氏ご自身をこう紹介しております。

「 いったい何をしゃべったのだろう。口の重い、
  社交性の乏しい私が、何をしゃべったのだろう。  」(p268)

これもあったからでしょうか。坂西志保さんは
アメリカへ出発する際に、ある注意をされておりました。
はい。そこを最後に引用することに。

「 ・・・アメリカで次の二つのことを守って下さいと
  坂西さんがいわれた。

  一つは約束の時間に決して遅れないこと。
  もう一つは、食事やお茶に招かれたとき、
  必ずサンキュー・レターを出すこと。
  短くてもいいから、すぐにお礼のことばを書いて
  出して下さいといわれた。

  坂西さんに教わった二つのことを
  私たちはアメリカ滞在中、守ったばかりでなく、
  帰国後もずっと実行した。

  また、子供らに、人に何かしてもらったときは、
  必ずお礼状を書くようにと教えた。
  三人の子供はみな結婚して家を離れたが、
  今でもこのお礼状をすぐに出すという習慣は
  身についているようだ。坂西さんに感謝したい。 」(p334~335)

お礼状とか、感謝とか、言い忘れたことを年賀状にしたためる。
そんな習慣が、いままで身近にありました。ここを読みながら、
ここらで私は、サンキュー・レターへと切り替え時だと思うわけです。
ということで、またしても12月は、年賀状を書かないだろうなあ(笑)。

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庄野潤三交友録

2024-12-13 | 古典
「夕べの雲」を読んでいる途中なのに、
庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)を読み始めた。

年齢的には庄野氏が73歳。1994年に1年間連載したのがこの『交友録』。
私は、「明夫と良二」から読み始めたせいか、先生が歌うことや、
ロビンソン・クルーソーが、『文学交友録』のはじめに出てくる
のには、正直驚かされる。

ここは、順を追ってゆくと、 
『明夫と良二』のあとがきには、こうあったのでした。

「 『ロビンソン・クルーソー』のような話が書ければ、
  どんなにいいだろうと、思わないわけではありません。 」

交友録のはじまりに、
「私は大阪の住吉中学を卒業して昭和14年に
 大阪外国語学校英語部に入学した。・・・
 外語英語部で私が教わった吉本正秋先生と上田畊甫(こうほ)先生・・」

この先生のことから始められております。
吉本正秋先生の家は『 田圃の真中にあった 』という

『 矢田の駅を出て、人家のかたまっているところを通り抜けて、
  一本道をどこまでも歩いて行くと、先生の家が見えて来る。
  まわりは見わたす限り田圃(たんぼ)である・・・   』 (p18)

「 校友会の雑誌に吉本先生が随筆を書いているのを読んだことがある。
  ・・・
  駅からは遠い。雨が降れば歩くに難儀する。
  まわりに家は一軒も無い。そんな不便な、さびしいところに
  どうして長い年月、自分は住んでいるのか。
  そういうことを書いてあった。

  最後のところだけ、私は覚えている。
  自分はアレクサンダー・セルカークもどきに、
  『 見渡す限りは、わが領土なるぞ 』
  とうそぶいている、というのであった。・・・

  この随筆の結びのところも、その英詩らしい一句も
  はっきりと覚えているが、
 『 アレクサンダー・セルカーク 』がいったい何者であるのか、
  分からない。分からないままに年月がたった。

  戦後、私が家族を連れて会社の転勤で東京へ引越して
  大分たってからだが、・・英語の先生をしている友人の
  小沼丹(おぬまたん)に尋ねたら、アレクサンダー・セルカークとは
  『 ロビンソン漂流記 』のモデルになった人物だ、
  船乗りであったが、無人島に置き去りにされて、
  何年かひとりきりで暮したことがある。
  この経験を書いて本にした。デフォーはその本にヒントを得て
  『 ロビンソン漂流記 』を書いたと説明してくれた。・・・
  小沼丹のひとことで長年の謎がいっぺんに解けた。  」(~p24)

はい。こうして交友録がはじまっております。
パラパラ読みですがゆっくり読みだすと、この『交友録』と、
庄野潤三の作品とが、きっちりと木霊して消えてゆくような、
何だか奥行きのある琴線へと触れたような気になるのでした。



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太海(ふとみ)の海で泳ぎを覚え

2024-12-12 | 安房
近藤啓太郎のことを知りたくて、
庄野潤三著「文学交遊録」(新潮文庫)をひらく。

目次に「吉行淳之介・安岡章太郎・近藤啓太郎」の章がある。

「吉行と安岡のことを話したら、長年のつき合いのある
 安房鴨川の近藤啓太郎のことを話しておきたくなった。」

はい。安房の外房の太海(ふとみ)のことが出て来るので
ここは、長めの引用となります。

「・・私たち一家が東京へ引越して来た翌年の夏、
 近藤に勧められて、海水浴をしに子供を連れて、
 外房の太海海岸へ行った。

 私たちが子供を海で泳がせたがっているのを知った近藤は、
 それなら鴨川の一つ先の太海がいい、
 太海には子供を泳がせるのに持って来いの浜がある、
 庄野、太海へ来いよといった。

 ・・・次の年から画家や画学生の泊る吉岡旅館を予約してくれた。
 この宿屋も海もよくて、私たち一家はすっかり気に入り、
 毎年、夏休みが来ると、必ず太海へ出かけて、
 吉岡旅館に泊まるようになった。何とかして都合をつけて出かけた。

 はじめは一晩泊りであったのが、すぐ二晩泊りになり、
 やがて豪勢に三晩泊るようになった。
 妻は今でもそのころのことが話に出ると、
『 今年は三晩泊りだといわれたときは、とび上るほどうれしかった 』
 という。幸いに画家や画学生を相手の旅館だから、宿賃が安かった。
 宿賃の安い割には食事もたっぷり出て満足させてくれた。

 太海ではお宮さんの石段の前にいい泳ぎ場があった。
 岩でかこまれたようになっていて、大きな波が来ない。
 安心して子供を遊ばせておくことが出来た。
 
 この浜で私の三人の子供は泳ぎを覚えた。
 次男のごときは、生れた次の年の夏にはもう太海へ連れて行って、
 砂浜に坐らせておいた。あるとき、泳いでいて浜の方を見ると、
 2歳になる次男が砂浜にひとり坐っていて、
 こっくりこっくり眠っているらしく、身体が少しずつ横へ傾いては
 もとに戻る。日が照りつける下で、ひとり砂の上に坐ったまま、
 眠り込みそうになっていた。

 お金がないからビーチパラソルなんか買えなかった。
 この下の子が太海の海で泳ぎを覚えて、
 小学校へ上るまでに泳ぎ出した。
 
 海べで育った子どもと同じように楽々と泳げるようになった。
 長女も泳ぐのが好きで、いつも太海を引上げる日の午前、
 最後まで海につかって名残を惜しみつつ泳いでいた。 」(p293~p295)

まだ、続くのですが、そしてこのあとに近藤啓太郎家族も登場するのですが、
う~ん、またしても、引用が長くなってしまうのでここまで(笑)。

ちなみに、庄野潤三全集第六巻の月報6には、
永井龍男・近藤啓太郎・安岡章太郎の文が載っており、
全集の月報4に、吉行淳之介の文が載っておりました。
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「 山の上の家 」

2024-12-11 | 道しるべ
今日は、主なき家の草ぼうぼうの畑の周りの細葉刈り。
細葉(マキ)の天辺を平らにする作業。
半日ですまそうと安易にはじめたのですが、
脚立を持ち出したりして一日仕事。それも道路側のみ。

はい。やっつけ仕事で今年はおしまい。
帰ってきたら、古本が届いている。
「庄野潤三の本 山の上の家」(夏葉社・2018年初版で2019年第三刷)
門外漢なので、当てずっぽうの注文でしたが、
目次をみると、「 庄野潤三全著作案内 」という箇所がある。
以前に古本屋のリストに並んでいた、庄野潤三の本たちの
題名が、どうも、全集以降の本でしたので、これは
どこから手をつけてよいものだか道案内人がほしかったのでした。
その案内本らしいのでした。有難いなあ。夏葉社さん。

その中に上坪裕介の文がありました。こうあります。

「・・それは平成21年に庄野潤三が88歳で亡くなるまで続けられた。
 『愛撫』で文壇にデビューしたのが28歳の頃だから、
 おおまかに活動期間が60年とすると、その全期間の実に八割、
 およそ50年間をこの生田の山の上を描くことに費やしたことになる。

 そういう意味で『 夕べの雲 』は記念碑的な大きな意味を持つ。
 『 貝がらと海の音 』からはじまる晩年の連作シリーズは
 その集大成であり、庄野は自身の文学を最晩年まで深化、
 成熟させた稀有な作家であった。

 庄野潤三というと初期の・・・・評価された作品を思い浮かべる
 読者も多いだろう。しかし、このようにあらためて振り返ってみると、
 それらの作品が書かれた時期はほんの10年ほどの短い期間であり、
 全体を俯瞰してみれば庄野文学の本筋は『 夕べの雲 』以降の
 作品群にこそあるとわかる。・・・・   」( p103∼104 )

ありがたい。格好の道案内人に指示された気がしております。
今年も残り少なくなりました。12月は庄野潤三を読むことに。


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外房州の海岸へ

2024-12-10 | 安房
庄野潤三著「夕べの雲」の目次は
最初が『 萩 』。次が『 終りと始まり 』。
目次の二番目の『 終りと始まり 』に、それはありました。

「 外房州の海岸へは、毎年行く。
  二晩か三晩泊って、帰って来る。
  東京から遠いのと、すぐ隣の町に大きな海水浴場があるので、
  ここまで来た人もそっちへ集ってしまうせいか、
  その海岸は静かであった。

  彼等が初めてその村の小さな宿屋へ行ったのは、
  もう十年前のことで、晴子と安雄はいたが、
  正次郎はまだ生れていなかった。

  有難いことにその漁村は、十年前もいまも殆ど変りがなかった。
  色の黒い村の子供も、家族連れで来ている客も同じ磯で泳いでいて、
  人数はそんなに多くならないのであった。
  夕方になると、浜には誰もいなくなった。

  この村へ行くようになったのは、
  ひとつ隣の海水浴場のある町に大浦の友人が住んでいて、
 『 いいところだから、来ないか。子供がきっと好きになるところだ 』
  といって、誘ってくれたのであった。

  彼の話によると、その海岸にはお宮さんの下にいい泳ぎ場がある。
  まわりに岩礁があって、そこだけ特別に波が静かで、泳ぎよい。
  岩礁の上を伝ってどこまでも歩いていくことが出来て、危くない。

  岩の間の窪みにいるダボハゼを取るのに絶好の場所で、
  魚取りに夢中になっていて、顔を上げると、
  眼の前は太平洋だ。海の色が違う――と、
  そういうのであった。

  そこで、彼等は出かけて行った。
  小学一年生の晴子と三つになる安雄と彼と細君とで。
  友人がいった通り、子供はそこが気に入った。
  彼も細君も気に入って、来年もここへ来ようと思った。
  そのうち彼等の家族は、人数が一人ふえた。・・・・・  」


年譜によると、昭和39年(1964)43歳
『夕べの雲』を日本経済新聞夕刊に連載(127回完結)とあります。
その年の年譜には『 八月、家族と太海へ行く。 』ともあります。


ちなみに、昭和31年の年譜にはじめて、出てくるのが
『 近藤啓太郎の紹介により千葉県安房郡江見町の太海へはじめて
  家族と行く。子供はまだ小さかったが、夏には都合のつく限り
  出かけるようにしたので、三人ともこの浜で泳ぎを覚えた。 』
            ( p583 「庄野潤三全集」第10巻 )

気になって古本を注文しました。
庄野潤三著「明夫と良二」( 岩波少年少女の本16 )。
それが、昨日届きました。凾入りハードカバー。
安西啓明氏の、表紙画と本文にところどころの挿画があります。

はい。庄野潤三全集第9巻に「明夫と良二」が載っているのですが、その
全集には、岩波少年少女の本に載った「あとがき」はありませんでした。

その「あとがき」に、海が出て来ておりました。
あとがきは、昭和47(1972)年3月とあります。
最後に「あとがき」を端折って引用しておきます。

「 『ロビンソン・クルーソー』のような話が書ければ、
  どんなにいいだろうと、思わないわけではありません。
  小学生のころに、家にあった、絵入りのこの本を、
  私は兄や姉なんかと同じように胸おどらせて読んだのですから。 」

そのあと途中を端折りますが、どうしてか、海という言葉が出て来ます。

「これは、どこの港からも船に乗らず、従って海のまっただ中で
 怖ろしいあらしに出会うこともなく、無人島に流されもしない、
 自分の家でふだんの通りに暮らしている五人の家族の物語であります。・・」


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不適切報道大賞

2024-12-09 | 書評欄拝見
ついネットで、あれこれと見ていると要約をしたくなる。
今年の流行語大賞は『 ふてほど 』なのだそうですが、
しっくりくるのは、『 不適切なテレビマスコミ報道 』
というのが一番納得感がある意味になるなあと思えます。
こういう意味合いを重ね合わせることが出来る流行語は、
貴重であります。ふところの深い味わいが感じられます。

ところで、大賞には、選考委員という方々がいる。
いったい、選考委員が選ぶに足る作品がテレビや
マスコミにない場合は、困るだろうなあとおもう。

そんな困った話をあげつらうより、これぞという作品に
めぐりあった選考委員の話を、ひとつ引用してみたい。

ということで、
庄野潤三全集第9巻の月報9。
そのはじまりは与田準一氏でした。

第2回め(昭和47年度)の赤い鳥文学賞の選考委員のひとりが
与田準一氏。ここには候補作品を読んでいる与田氏がおります。

「 ・・・庄野潤三氏の『 明夫と良二 』を読んだ私は、
  こんどの賞はこの作品だ、と思いました。
  いや、読みすすむうち、もう三分の一あたりから、
  候補作品読みといったお役め読みを忘れて、
  純粋な読書の楽しみにひたっていたというのがほんとうです。

  ・・・『 明夫と良二 』の文章は平明です。
  一見、平明です。ですが、味読には一種の咀嚼力がいります。
  それは明晰な強さを持つ文章だからです。
  明晰というのは無駄がないということです。

  ・・・このような自律的文章は、他の作品に見られなかったことでした。

  ・・・根本的には庄野さんの小説の文体と変りはない、
  いやそれそのもので庄野さんは年少読者と付き合おうとしている。
  平明だが咀嚼力がいるという、いっぱん的には
  児童少年文学作品に欠けていた要素がここにあるという、
  確信というか興奮というか、そのような不思議な時間帯のなかに、
  ときに私は立ち止まり、また移りゆく状態でした。  」


はい。何やら選考委員冥利につきる出会いがあったようです。
与田氏はさらに続けるのでした。

「 ひとつもむつかしいものがありません。
  むしろ読者私どもの忘れてかえりみずにいた日日(という不思議)が、
  私どもの内部に眠りこんでいたものと共に甦る、
  とでもいったらいいのでしょうか。
  今は、大人も子どももなべてこの退色してとどまらない
  日日の処在にじつは困っています。・・・・・      」


さらに、与田氏は、同じ選考委員の巽聖歌氏に電話をするのでした。
うん。最後には、その箇所を引用。


「 聖歌は既に承知していて、
 『 すばらしく、長い長い詩だね。 』などと応じたものでした。 」


はい。選考委員と作品との出会いというのは、そうそうあるものじゃない。
そうですよね。


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あとによろこびが残る。

2024-12-08 | 書評欄拝見
庄野潤三著「明夫と良二」を読んだら、その後に、
何というか、著者の他の本を読む気がしなくなる。
それは何かこの一冊で充実した満足感に包まれる。

まあ。このようにいつも本を中途半端に読む私がいる訳です。
けれども、この味わいは何なのかというのは、知りたくなる。
この満足感というのは、いったいどこから来るのだろうかと。

文庫だけを並べた本棚が家にあり、つい買ったはいいものの、
ついぞ、読み通したことのない文庫がそこにあるので滅入る。

たしか、と思って調べてみると、ありました。
庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文庫・昭和46年初版で昭和54年10刷)。
はい。読もうとして買ったはいいものの、そのまま本棚に眠ってました。
この文庫のカバー装画・畦地梅太郎で、面白い絵です。
この文庫の解説は「庄野潤三の文学」と題して小沼丹。

はい。次に読むのはこの文庫にしようと思いながら、
解説を読み始める。そのはじまりは

「 庄野の随筆集『 クロッカスの花 』のなかに、
  『 アケビ取り 』と云う文章があって、
  男の子の友だちの松沢君と云う子供が出て来る。

 『 色が白くて、まんまるで、静かで、いつも悠々としている 』。
  デブチンダヌキと云う仇名(あだな)があるが、
  生れつきおっとりした旦那の風格を具えていて、
  学校の帰りにズックの鞄をかけたまま、坂道の上に立って
 『 何ということなく、あたりの景色を眺めている 』のだそうである。

  これを読んだら、いかにもそんな子供がいる
  と云う実感があって面白かった。・・・・      」(p269)

はい、小沼氏の文は、こうしてはじまっておりました。
そのすこし後に、庄野氏の言葉を引用しておりますので、
そちらも引用しておきます。

『 私はおかしみのあるものが好きで、
  いつもそういうものに出会わないだろうかと待ち受けている。
  道を歩いている時でも、電車に乗っているときでも、
  そんな気持ちでいる。それで何かあると、満足する。

  それは、どういう風におかしいのか、いってみろといわれると、
  おそらくひとことも返事が出来ないような性質のものである。

  何でもないといえば、何でもない。
  そんなことが、どうしておかしいといわれても
  仕方のないような、ごく些細なことである。

  しかし、私はそういうものに出会うと、
  自分の心がいきいきするのを覚える。
  あとによろこびが残る。       』 (p270)


はい。この解説に背中をおされるようにして、
つぎは庄野潤三「夕べの雲」を読んでみます。
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『 いいから、うたって 』

2024-12-07 | 詩歌
ネットで古本を購入しているのですが、
古本屋でも、そこで、一度見かけたものが、
同じ古本屋では、もう二度と御目にかかれない場合もあります。
そうかと思えば、一挙に同じ著者の作品が並んでいたりします。
ついこの間は、庄野潤三の本が一同に並んだことがありました。
単行本で凾入りで、庄野潤三著「絵合せ」(講談社・昭和46年)
が300円。はい。安いとついつい手がでます。買ってから見ると、
最後のページの余白に鉛筆で2000円と記してありました。
白色の布張りの本は、茶色のまだらがつきはじめておりました。
装幀が、栃折久美子とあります。「 庄野潤三作品集 絵合せ 」。
「あとがき」をひらくと、こうありました。

「・・・『絵合せ』は、もうすぐ結婚する女の子のいる家族が、
 毎日をどんなふうにして送ってゆくかを書きとめた小説で・・・

 確かに結婚というのは、人生の中で大きな出来事に違いないが、
 ここに描かれている、それひとつでは
 名づけようのない、雑多で取りとめのない事柄は、
 或は結婚よりももっと大切であるかも知れない。

 それは、いま、あったかと思うと、もう見えなくなるものであり、
 いくらでも取りかえがきくようで、決して取りかえはきかないのだから。」


はい、『 絵合せ 』をひらいていると、
良二が歌う場面がでてきます。

「 ・・三月中ごろの或る晩、その良二が不意に
  『サンタ・ルチア』をうたい出した。

  ついさっき会社から帰って、ひとりで遅い夕食を食べた姉の
  和子も細君も彼も、みんな呆気に取られた。
  歌は途中でとまったが、和子は、

 『 いいわ。いいわ 』といい、
  もう一回うたってと頼んだ。
 『 どうしたの、それ? 学校で習ったの。全部うたえるの、
   原語で。大したものね 』
  すると、良二は音楽の時間に女の先生がうたってくれたのだといった。
 『 教科書にのっているの? 』
 『 教科書にのっているのは、ただの日本語なの。
   それで先生が、その、イタリア語でうたって 』
 『 教えてくれたの 』
 『 そう 』
 『 うたって 』
  今度は、良二は恥しくなって、うたわない。 
 『 いいから、うたって 』
  そんなふうに改まっていわれると、声が出ない。
  和子と細君に二人がかりで催促されて、
  良二はうたわないわけにゆかなくなった。   」(p13~14)

 
そのすこし後に、主人公(お父さん)の意見がさりげなくはさまる。

「 もともと良二は、わらべ歌くらいが似合っている。
  不意に家の中でこの子がうたい出すのは、
  いつも学校で習った曲にきまっているが、
  その中にいくつか、わらべ歌があった。

  二月くらい前になるが、何かの拍子にそのことを思い出した。
 『 四けんじょ 』というので、九州地方のわらべ歌である。

 『 一けんじょ 二けんじょ
   三けんじょ 四けんじょ  』

 というので、それだけ聞いたのでは何のことだか分からない。
 これは良二が小学五年のころに習った。
 やっぱりその時も家の中で出し抜けにうたい出した。  」


はい。数行端折ってもいいのでしょうが、この間は貴重なので
そのままに続けて引用してみます。

「 『 四けんまほただの のりくらのうえに 』
 
  というのが出て来る。
  はじめは何だかまた、はかない歌をうたっている、
  と思ってきいていたが、あとで良二を呼んで尋ねてみた。
  
  『 何だ、それは。何の歌だ 』
  『 これ? 』といってから、
  『 四けんじょ、だったかな 』
  『 四けんじょ? 四けんじょって何だ 』

  すると、良二は音楽の教科書を取って来て、そこをひらいてみせた。
  『 けんじょ 』は、けわしいところ、従って
  『 四けんじょ 』は、四番目のけわしいところという意味らしい。

  『 牛はこびの人が 』と良二はいった。
  『 道を通って行って、うんとけわしいところがある。
    そういうことをうたってあるんだって 』
  『 なるほど 』
  『 あめうしけうしは、いろいろな牛ということなの 』

   いろいろな牛がけわしい山道をいくつも通って行かなくてはいけない。
   それで、牛も難儀するし、ついている人も難儀する。
   最後のところは、

  『 さるざかつえついて
    じっというて それひけ 
     それひけ      』となる。
  この『 じっというて 』というのがいい。
  牛も人も、同じように汗をかいているみたで、いい。  」(~p16)


はい。わらべ歌というのは、どんな歌なのかと、
めくったのは『日本わらべ歌全集25」(柳原書店)の「熊本宮崎のわらべ歌」。

最後にそこからの引用をしておくことに。

       いちけんじょ    ( 鬼きめ歌 )

    一けんじょ 二けんじょ
    三けんじょ 四(し)けんじょ
    しけんも おたかの 乗鞍の上に
    雨うし こうし 猿坂(さるさ)が杖ついて
    じいと ばば こるふけ     ( 水俣市丸島町 )


「 『 一けんじょ 二けんじょ 』ではじまる鬼きめ歌は、
  一部、語句の違いを認めながら、県下全域に残存する。

   ・・・・・・・・・・

   実際は、林道春の『徒然草野槌』(元和7=1621)にもあるとおり、
   頼朝のころ、鎌倉でうたわれた『 一里間町(けんちょう) 二間町 』
   が変化して鬼きめ歌になったものであろう。  」 (p30)
    

 
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『 おいしーい 』

2024-12-06 | 短文紹介
庄野潤三著「明夫と良二」の中ほどに、
「ざんねん」と題する10ページほどの文がある。

姉と兄と弟との3人兄弟の一番下が風邪をひき下痢をする。
はじまりは

「 これから夏休みが始まるというのに、
  良二は下痢をして、梅干とお茶だけしか口に入れられない。
  みなが食べているのを、怨めしそうにじっと見ている。・・ 」

「昼はお茶と梅干だけ、こちらが冷し中華を食べていると、
 羨ましそうに見ている。・・・

 井村は細君と二人だけでお盆に知人の家へお参りに行ったが・・
 いろんな話をしているうちに、
 奥さんが梅酒はおなかをこわした時に飲むとよく効くといった。
 それを思い出した。

 『 ああ、それがいいわ 』
 と細君がいった。
 『 蜂蜜、入れましょうか 』
 『 それはいいだろう 』
 自分のうちで毎年つくる梅酒が台所にしまってある。
 ( お粥と一緒に食べさせた梅干も自家製であった )
 何本か、ある。
 細君はぐい呑に梅酒をついで、蜂蜜をいっぱいまぜてやった。
 良二は一口なめると、たまらないような声で、

 『 おいしーい 』といった。
 口に入れて、すぐに飲まずに、何遍もこねまわすようにしてから飲む。 」

兄の明夫が、良二のを飲みたがる。

「 『 良二、ちょっと 』
  『 なに! 』
  『 なにって、分かるだろう 』
  『 分りません 』
  『 おい 』
  『 は 』
  『 分るだろうといってるんだ 』
  『 分りません 』

  といったとたん、良二は、
  『 いて 』
  自分の膝を押えた。どうやら明夫が
  素早く『でこぴん』をくらわせたらしい、

  『 明夫 』
  と細君はいった。
  『 下痢して、ふらふらになっている弟を痛めつけるんじゃありません 』

  明夫は、まだ、ひと口くらいなめさせてくれてもいいだろうとか、
  けちだとか、思い切りの悪いことをいっていたが、井村に、
  『 しつこい 』といわれて、やっと諦めた。

  良二は、ぐい呑一杯の蜂蜜入り梅酒を飲む間に、七、八回、
  『 おいしーい 』といった。         」


なにか、まだ引用がたりないような気になるのですが、
これくらいにしておいて、
庄野潤三全集第10巻の月報10に、
庄野潤三のお兄さんの庄野英二氏が文を書いてます。
お兄さんの英二から、弟の潤三が語られております。
『 潤三は子供の頃、漫画が得意で・・・
  夢野朦郎という筆名を自分でつけていた。・・  』

そのあとの英二氏の回想を、ここに引用しておきたかった。

「 夢野朦郎の筆名の由来については、
 『 自分はぼんやりした性質だから 』と随筆の中に書いているが、
 『 潤三は子供の頃、兄弟の中でひとり変っていた。 』
 と亡母がよく話していた。

 茶の間で、子供たちが一緒におやつを食べている時、
 潤三も茶の間に坐っていながら、おやつに気がつかなかったり、
 家の近所の道を歩いていて、母とすれ違っておりながら、
 全然母に気がつかなかったり、ちょっと考えられないような
 放心状態になっていることが、ままあった。     」


ということは、弟の良二を描写している時の庄野潤三氏は
どうやら、御自分の小さな頃を重ね合わせている時のような
そんな筆力を自然と感じさせるものがありそうです。

はい。庄野英二氏のこの文を読むと、何だか、確信したくなります。
はい。ついつい月報をひろげると、あれこれ思い描きたくなります。

英二氏の文にこうもありました。

  「 兄弟共に、食意地が張っていて、
    はしたないことであるが、酒食に関することも多い。   」

そういえば、あらためて『明夫と良二』の場面が浮かびます。

『  ぐい呑一杯の蜂蜜入り梅酒を飲む間に、
   七、八回、 『 おいしーい 』といった。    』 
  
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八月、家族と太海へ行く

2024-12-05 | 安房
講談社「庄野潤三全集」第10巻の巻末に、
( 昭和49年3月、著者誌す )とある年譜がありました。
そこをめくってみます。

大正10年(1921)2月9日、大阪府東成郡住吉村
( 現、大阪市住吉区帝塚山東・・ )・・の三男として生れる。

以下には、興味がある地名が出てくる箇所。

昭和19年(1944)23歳・・・7月、館山砲術学校に移り、
             対空射撃の訓練を受けた。・・・

昭和26年30歳 9月、朝日放送に入社、教養番組制作を担当。
昭和30年34歳 8月、朝日放送を退社、文筆生活に入る。
昭和31年35歳  近藤啓太郎の紹介により千葉県安房郡江見町の太海へ
        はじめて家族と行く。子供はまだ小さかったが、
        夏には都合のつく限り出かけるようにしたので、
        三人ともこの浜で泳ぎを覚えた。

    ちなみに、長女夏子(昭和22年、10月生まれ)
         長男龍成(昭和26年生まれ)
         次男和也(昭和31年、2月生まれ)

年譜をめくると、『 八月、家族と太海へ行く 』というのが、
昭和34年・昭和36年・昭和37年・昭和38年・昭和39年・昭和40年
昭和41年・昭和42年とあり、
昭和43年から「家族と広島へ行き、釣りと海水浴をする」とあります。
       
 
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房州の海岸町にいて

2024-12-04 | 安房
さてっと、未読の庄野潤三なのですが、
どれから、読んだら良いのだろうと思っておりました。

そこはそれ、お薦めの一冊『 明夫と良二 』を今日読む。
後半になって『 ざんねん 』という題の箇所が印象深く。
残りを読むのが勿体ないようなそんな気がしておりました。

そうそう。『 姉と弟 』と題する箇所のなかに
『 房州の海岸町  』というのが出てきたのでした。
兄弟で、姉のところへ行ったあとの会話でした。

「 『 和ちゃん、喜んでいたよ。帰りにこれくれた 』
 紙袋にじゃこの入ったのを、明夫は机の上に置いた。

 結婚式のあとで、房州の海岸町にいて、
 小さいころから和子を知っている井村の友人が、
 お祝いにひじきとじゃこと鰹節をどっさり送ってくれた。

 和子が、その時、
 『 海産物のお店がひらけるくらい、頂きました 』
 と井村のところに報告したくらいで、主人の家、
 世話になった仲人さんの家、井村の家と自分のところと、四軒に分けたが、 
 ひじきだけはまだ一年分くらい残っているというのであった。

 この気前のいい友達は、井村の家族が東京へ引越して来た
 その翌年の夏に、みんなで泳ぎに来るようにといって、
 彼の町から汽車でひとつ先の駅に近い、小さい宿屋を紹介してくれた。

 和子は小学校一年、明夫は三つ、良二はまだ生まれていなかった。
 その時以来、子供が夏休みになると、いつもここへ来て、
 せいぜい二晩泊りか、長くて三晩であったが、岩の窪みにいる小魚を
 つかまえたり、泳いだりして過すようになった。

 ・・・・井村の三人の子供はみな、外海に面した
 ここの浜で泳ぎを覚えたのであった。  

 『 もう和ちゃんのところ 』 
  と明夫はいった。
 『 このくらいしか、残っていなかったよ 』
  よほどいいじゃこを送ってくれたらしくて、
  井村の家族はみんな、おいしい、おいしいといいなが食べてる。・・ 」
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房総地震と隆起資料。

2024-12-03 | 安房
房総半島地震の隆起に関する資料

〇君塚文雄編・国書刊行会
「190・ふるさとの想い出写真集。明治・大正・昭和 館山」

〇千葉県郷土史研究連絡協議会編・郷土研叢書Ⅳ
「 房総災害史 元禄の大地震と津波を中心に 」

〇 羽鳥徳太郎著「 歴史津波 」(イルカぶっくす)

〇武村雅之著「 地震と防災 」(中公新書・2008年)

〇千葉県【 防災誌 】 ( 各30~40ページほどの冊子 )
 「 元禄地震  語り継ごう 津波被災と防災」(2008年3月発行)
 「 関東大震災 千葉県の被害地震から学ぶ震災への備え」(2009年3月発行)
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つるかめ、つるかめ

2024-12-02 | 詩歌
庄野潤三の短編に「丘の明り」がありました。
家庭の子供たちとの話がとりあげられているのですが、
『 こうちょく 』の話しから、死後硬直へと入った際に、
『 縁起でもないことを口にした時は 』という箇所がありました。

ちょいと、すぐに忘れるので引用しておきます。

 『 ああ、そう 』
 とんでもないことをいひ出したものだ。
 そこで私たちは急いで『 つるかめ、つるかめ 』といった。
 縁起でもないことを口にした時は、
 すぐにかういつておかないといけない。
   『 つるかめ、つるかめ 』
   『 つるかめ、つるかめ 』
 それで、私の質問は途中で立ち消えになつてしまった。

この短編は、最後になっても気になる箇所がありました。
どうしてだか、『 わらべうた 』が出てくるのです。
はい。こちらも引用しておくことに。


  これで三人の話はおしまひである。・・・・・

  ところで昨夜、お風呂にひとりで40分も入つてゐた下の男の子が、
  やつと出て来て、湯上りのタオルを身體に巻きつけたまま、
  急に間延びのした聲で、

 『 向うお山で ひかるもーのは 』

  とうたひ出した。  
  さういひながら、廊下をこいらへ歩いて来る。

 『 つきか ほーしか ほーたるかー 』

  おや、妙なうたをうたひ出したな、と私は思つた。
 『 何だ、それ 』
 『 学校でならつたの 』
  そういつて、下の男の子は、

 『 つきならばー おがみまうすが
   ほたるなんぞぢや あーかんべー 』

  と、しまひまでうたつた。
 『 唱歌か 』
 『 うん。わらべうた 』
  下の男の子は、部屋から音楽の教科書を取つて来て、台所で私に見せた。
 『 向うお山で 』といふ題で、
  譜の上のところに関東地方のわらべうたと書いてある。

 『 もう一回、うたつてみてくれ 』
  私がそういふと、下の男の子は、
  身體にタオルを巻きつけたままの恰好で、うたつった。・・・・



『日本わらべ歌全集』から数県の目次をみてみましたが、
『向う・・・』というわらべ歌はあるにはあるのですが、
 どうやら、これは庄野潤三氏の創作わらべ歌のようです。

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