後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「お葬式は、要らない」という本が売れているそうですが、しかし・・・

2010年08月02日 | 日記・エッセイ・コラム

今日の読売新聞の11ページに、宗教学者の島田裕巳著、「葬式は、要らない」という本が現在29万部売れていると書いてあります。それに対して、葬送ジャーナリストの碑文谷創氏が葬式は故人の為だけではなく、悲しみを味わっている残された人々の為にも重要ですと反論しています。同感です。更に、仏教学者の末木美士氏は「家」崩壊や昔の家族制度の崩壊は当然、「従来の方式の葬式」の衰退は当然ですと評論を加えています。これにも同感です。

さてこのブログの今朝の記事、仏教国に住んでいるのにお寺のことは知らない(1)お寺の総数と和尚さんの修業へ対して博識な ちぶね さんからコメントを頂きました。その一部を抜粋すると下記のようになります:導入部と中間の一部と後書きを省略しました。全文はこの記事のコメント欄に御座います。

====導入部省略======

日本仏教は大乗仏教であり、実態は檀家制度の許の「家」単位の宗教です。基督教のように葬式は必ずしも寺院で行われる訳ではありません。何故なら、神に対する信仰としての共同体の認識が全く欠如しているからです。江戸時代以来の寺請制度の名残で、血族を根幹とした管理機構の一部と見てよいかと思います。
 葬儀会社の会館での葬式と思われますが「何処からともなく……」と仰る意味は理解できませんが、予定時刻になって参会者が揃ったところで、控えの間から登場して、引導を渡す為の読経をした訳です。それとも僧侶の出自を指しておられるのでしょうか。出自ならば、故人の「各家の宗旨の檀那寺ないし菩提寺」の住職が呼ばれるわけで、稀に親族や縁者から相談を受けた場合には葬儀社が僧侶を斡旋する事もあります。「何がなんだか分からないうちに……」は進行内容ではなく、「経」そのものの意味のことを仰っておられるのではしょうか。非カトリックの日本人が体験するラテン語ミサと同じ感覚だと思います。
 経、即ちスートラは元々は釈尊が語られたとされる言葉です。八万の法蔵とも呼ばれ、途方も無い数の経が存在します。原典のサンスクリット語経典が支那に渡り、翻訳された際に「漢語訳」と「音訳(固有名詞や真言)」によって漢語訳経典が成立しました。それが我が国に伝わり、そのまま読み上げる習慣で今日に至っています。各宗派は所依の経典によって、それぞれの教義を発展させてきました。その当時の文化的背景には支那文化の影響力が大きく、学問は漢文で為されており、僧侶階級(律令制下は国家公務員でした。)は当然に漢文は習熟しておりました。また経典に関する注釈として「疏」も編まれました。現代日本語訳は当然に存在しますが、宗教儀式・作法としては原典のままです。これは漢字自体が表意文字であり、経文一字一字に仏の力が宿っていると考えるからでしょう。これは一種の言魂信仰でもあり、言語学的意味あいもさることながら「響き(波動)」そのものにも仏の救済を感じ取る意味合いがあるはずです。グレゴリオ聖歌にもその香りを感じ取る事が出来ましょう。私個人としても「聖書」は口語訳よりも文語訳の方が琴線に触れます。韻を踏んでいるので覚えやすくもあります。 焼香は仏教独特の習慣ですが、清めの意味です。清浄な心で死者を弔うための行為ですが、イエス様が乳香を捧げられ、香油を注がれた御身であるので、それに一脈通じる意味合いと考えてもよいと思います。
 基督教は各国語による散文であり、仏教は呉音読みによる漢文です。但し、最近は省略傾向にありますが、昔は通夜や年忌法要の席では僧侶による「法話(説教)」がありました。=====後書きは省略========

以上の明快な解説を読んだ上で、今日の読売新聞の11ページにある島田裕巳氏と碑文谷創氏と末木美士氏の3人の主張していることが良く理解出来ます。3人は反論しあっているのではなく相互補完をしながら、現在の風潮はごく自然な成り行きだと言っているのです。ちぶね さんの解説を見ると衰退するものには何か流行に合致しない部分があることが良く分かります。しかし流行が真理や本質とは関係が無い場合もあることを覚悟する必要もあります。少なくとも私はその様に信じています。今朝の、仏教国に住んでいるのにお寺のことは知らない(1)お寺の総数と和尚さんの修業 という記事の補足です。ちぶね さんコメントを頂きまして有難う御座いました。(終り)


樺太の花々を紹介している仮想、樺太庁のHPのご紹介

2010年08月02日 | 写真

ロシアはサンフランシスコ平和条約には署名していません。従って日本とロシアは国際条約の理解では未だ交戦状態なのです。ロシアは南樺太と千島列島を武力占領中なのです。この地域の潜在的領有権は日本にあります。

そこで日本が仮想的に領有していたら樺太庁が行政を担当していることになります。この想定にもとずいたHPがあり、いろいろ考えさせることが掲載されています。

このHPは、樺太庁ホームページと言い、URLは、http://www.nexyzbb.ne.jp/~esutorutouronayoshi/ です。一度、ご覧下さい。

下にそのHPにある樺太に咲く花々の写真を転載させて頂きます。日本では高山植物として咲いている場合が多いのです。花々の名前は樺太庁ホームページをご覧下さい。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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猛暑、水遊びの風景・・・大武川フレンドパークむかわ便り

2010年08月02日 | 写真

甲斐駒の名水の一つ、大武川の流れのそばに旧武川村が作った河川公園があります。自然の大武川の水浴場と公園内の子供の水遊び場を繋げてつくってあります。オートキャンプ場やシャワーや売店も完備してあります。大武川フレンドパークむかわ を検索すると詳細情報があります。昨日、孫3人が水遊びをして来ました。大武川の清流は谷川の水なので非常に冷たいのです。夏の水辺の写真をご覧になって涼しい気分になって頂ければ嬉しく思います。

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仏教国に住んでいるのにお寺のことは知らない(1)お寺の総数と和尚さんの修業

2010年08月02日 | 日記・エッセイ・コラム

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この写真は八王子の郊外にある広園寺というごく普通のお寺です。私達はこのように美しいお寺が沢山ある日本に住んでいます。自由に物事を考えることの出来る老境に入り、この国に生まれた不思議を今更ながら考えています。

考えながら、全国へ観光の旅をしています。日本という国をもっと深く知るためです。旅をして気がつきました。何処に行ってもお寺の大きな屋根が目につくことです。

一体日本には幾つのお寺が有るのでしょうか?そしてお寺にいる和尚さんはどのような修業をしているのでしょうか?

宗教というものに関心のある自分にとって前々から疑問に思っていました。

実は私には曹洞宗のお寺の住職をしている実の弟がいます。そこでメールを送り、住職として寺にいる和尚さんになるための修業方法を聞いてみました。

曹洞宗のお寺だけで全国に1万5千のお寺があって、住職がいるのです。やっぱり日本は佛教国です。ところがマスコミは宗教のことをあまり報道しません。そこで普通の日本人は全国にあるお寺の総数も宗派の違いもさっぱり知りません。

知人、友人のお葬式では何処からともなく袈裟を懸けた和尚さんが現れて、30分間くらいの読経と焼香すると終りとなります。そして和尚さんは何処かへ消えて行き、何がなんだか分からないうちに故人の冥福を祈って散会となります。

その和尚さんたちは一般的には何処かのお寺の住職様なのです。

お坊さんになるには先輩の和尚さんの弟子になって修業を積み、その師匠の推薦で本山で得度を受ける儀式を済ませると僧籍に記録されます。これで僧侶になれた訳です。しかしお寺の住職になって檀家の世話をし、お寺を管理、運営するにはもっと現世的な訓練を受けなければいけません。不特定多数の人間との接し方や葬式や仏式の結婚式でも読経と司式の実務的訓練をうけなければなりません。

この訓練課程の進み具合を示すのが「法階」というステップです。その修了をもって住職になる資格を貰います。

しかし、実際に住職になるには仏教の教理を理解し、他人へ教えることが出来なければいけません。要するに宣教の為の知的訓練を受けます。このステップを規定したあるのが「僧階」というものです。

この「法階」「僧階」の違いを知った上で、下記の弟からのメールを読むと分かり易いと思います。

=====実弟からのメール=========

曹洞宗は、お釈迦様を本尊とし、高祖承陽大師(道元禅師)及び太祖常済大師(螢山禅師)を両祖としています。他の宗派のような派はありません。
 他宗派の総本山というのは無く、福井の永平寺(開山は道元禅師)と鶴見の総持寺(開山は螢山禅師)を2大本山(両大本山)としております。両寺ともつねに修行僧は200名を超えております。
 寺院での僧侶の恒例の勤行の基本的なものとしては、法堂や本堂での毎日のお勤めがある。朝、昼、晩のおつとめはお経を上げること、また、1日4回(毎回1時間)の座禅修行、その他学習、作務(さむ、勤労作業)、托鉢、檀信徒の仏事回向などの日課が原則で、ぎっしりつまっています。
 僧侶の資格は、出家得度して僧侶となり、寺の住職になるまでにはそれなりの過程をふまねばなりません。

「僧侶の資格と法衣の色の関係」
 僧侶とは、得度を終わり曹洞宗の僧籍に編入された者のことである。そして、僧侶で一定の資格をそなえる者を教師という。
 僧侶の階級を法階(ほうかい)といい、教師としての階級を僧階(そうかい)という。曹洞宗の住職は、教師の資格が必要であるので、法階と僧階を持っている。

「法階」
まず、僧侶となるには、師につかなければならない。師の許しを得て得度を受ける。この場合の師を受業師といい、弟子を徒弟という。この段階で得度を受けて曹洞宗宗務庁の僧籍簿に登録された僧の法階を、沙弥・沙弥尼(尼僧の場合)ないし上座(尼上座)と呼ばれる。
 得度をすませたら、次には、立身(立職)という儀礼をする。この段階の僧を座元(尼座元)とか長老とかの法階でよぶ。
 立身の次は、嗣法(しほう)という儀式を行う。
嗣法をすませると、両大本山に拝登(はいとう)参籠して、一日住職の瑞世(ずいせ)という儀礼を行い、さらに転衣(てんえ)という式をする。これで和尚(尼和尚)という法階になり、寺の住職になる資格を得られる。住職在任中に、弟子を得て、弟子に立身の儀式を行わせると、その儀式を建法幢(けんぽうどう)といい、大和尚の法階にのぼる。

「僧階」
 嗣法をすませると三等教師という。三等教師は、たとえば一般高校を卒業して専門僧堂(両大本山に設置されている僧堂以外の僧堂)で本科一年を終了しなければならない。袈裟・絡子は黒色、ころもは黒衣である。
 転衣を済ませた和尚は、僧階は二等教師補とよばれ、宗立短大(仏教科)等を卒業していなければならない。袈裟・絡子は壊色(えじき、原色でなく中間色のこと)、ころもは黒衣である。
 建法ど幢をすませた和尚の僧階は二等教師である。ついで一等教師補、一等教師、正教師、権大教師、大教師、権大教正の順で最高位は大教正(両大本山の貫首)で権大教師以上は定員が有る。
 二等教師は、たとえば宗立大学(仏教学部・宗教学科)の卒業者等、一般大学卒業者は専門僧堂に六ヶ月あるいは本山僧堂に三ヶ月以上の修行歴を持っている者である。
 二等教師、一等教師補、一等教師のころもは、色衣(しきえ、黒衣でない色のころも)の着用が認められ、袈裟はまだら色・純色の着用が認められている。

===以上、お分かりになったでしょうか?=======(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人