今日の読売新聞の11ページに、宗教学者の島田裕巳著、「葬式は、要らない」という本が現在29万部売れていると書いてあります。それに対して、葬送ジャーナリストの碑文谷創氏が葬式は故人の為だけではなく、悲しみを味わっている残された人々の為にも重要ですと反論しています。同感です。更に、仏教学者の末木美士氏は「家」崩壊や昔の家族制度の崩壊は当然、「従来の方式の葬式」の衰退は当然ですと評論を加えています。これにも同感です。
さてこのブログの今朝の記事、仏教国に住んでいるのにお寺のことは知らない(1)お寺の総数と和尚さんの修業へ対して博識な ちぶね さんからコメントを頂きました。その一部を抜粋すると下記のようになります:導入部と中間の一部と後書きを省略しました。全文はこの記事のコメント欄に御座います。
====導入部省略======
日本仏教は大乗仏教であり、実態は檀家制度の許の「家」単位の宗教です。基督教のように葬式は必ずしも寺院で行われる訳ではありません。何故なら、神に対する信仰としての共同体の認識が全く欠如しているからです。江戸時代以来の寺請制度の名残で、血族を根幹とした管理機構の一部と見てよいかと思います。
葬儀会社の会館での葬式と思われますが「何処からともなく……」と仰る意味は理解できませんが、予定時刻になって参会者が揃ったところで、控えの間から登場して、引導を渡す為の読経をした訳です。それとも僧侶の出自を指しておられるのでしょうか。出自ならば、故人の「各家の宗旨の檀那寺ないし菩提寺」の住職が呼ばれるわけで、稀に親族や縁者から相談を受けた場合には葬儀社が僧侶を斡旋する事もあります。「何がなんだか分からないうちに……」は進行内容ではなく、「経」そのものの意味のことを仰っておられるのではしょうか。非カトリックの日本人が体験するラテン語ミサと同じ感覚だと思います。
経、即ちスートラは元々は釈尊が語られたとされる言葉です。八万の法蔵とも呼ばれ、途方も無い数の経が存在します。原典のサンスクリット語経典が支那に渡り、翻訳された際に「漢語訳」と「音訳(固有名詞や真言)」によって漢語訳経典が成立しました。それが我が国に伝わり、そのまま読み上げる習慣で今日に至っています。各宗派は所依の経典によって、それぞれの教義を発展させてきました。その当時の文化的背景には支那文化の影響力が大きく、学問は漢文で為されており、僧侶階級(律令制下は国家公務員でした。)は当然に漢文は習熟しておりました。また経典に関する注釈として「疏」も編まれました。現代日本語訳は当然に存在しますが、宗教儀式・作法としては原典のままです。これは漢字自体が表意文字であり、経文一字一字に仏の力が宿っていると考えるからでしょう。これは一種の言魂信仰でもあり、言語学的意味あいもさることながら「響き(波動)」そのものにも仏の救済を感じ取る意味合いがあるはずです。グレゴリオ聖歌にもその香りを感じ取る事が出来ましょう。私個人としても「聖書」は口語訳よりも文語訳の方が琴線に触れます。韻を踏んでいるので覚えやすくもあります。 焼香は仏教独特の習慣ですが、清めの意味です。清浄な心で死者を弔うための行為ですが、イエス様が乳香を捧げられ、香油を注がれた御身であるので、それに一脈通じる意味合いと考えてもよいと思います。
基督教は各国語による散文であり、仏教は呉音読みによる漢文です。但し、最近は省略傾向にありますが、昔は通夜や年忌法要の席では僧侶による「法話(説教)」がありました。=====後書きは省略========
以上の明快な解説を読んだ上で、今日の読売新聞の11ページにある島田裕巳氏と碑文谷創氏と末木美士氏の3人の主張していることが良く理解出来ます。3人は反論しあっているのではなく相互補完をしながら、現在の風潮はごく自然な成り行きだと言っているのです。ちぶね さんの解説を見ると衰退するものには何か流行に合致しない部分があることが良く分かります。しかし流行が真理や本質とは関係が無い場合もあることを覚悟する必要もあります。少なくとも私はその様に信じています。今朝の、仏教国に住んでいるのにお寺のことは知らない(1)お寺の総数と和尚さんの修業 という記事の補足です。ちぶね さんコメントを頂きまして有難う御座いました。(終り)