小金井市には広大な都立公園が2つあります。北側に都立小金井公園、そして南側に都立武蔵野公園です。この南側の公園は野川が流れているので、何時もは野川沿いの遊歩道を散歩してきます。ところが昨日は野川から離れて南の林の中を家内と散策して来ました。色々な樹木が植えてあり鬱蒼とした林になっています。
樹木が多いのは、この公園の南半分が他の都立公園へ樹木を供給する木々の畑になっているためなのです。その畑の中の道は、森の中の道のようです。
そんな道に迷いこむと、何か山奥の林の中を夫婦で歩いているような錯覚に捕らわれました。その瞬間、今まで味わった事の無い幸福感が身を包みます。そして周りの樹木が一瞬輝き出しました。50年も一緒に住んできた男女が二人で老後に林の中を歩く。何か奇跡のようです。キラキラ輝く時が林間を風のように流れて行きます。そうです。老年になると生きているだけで幸福感に包まれるのです。何もしないで公園の樹木の間を夫婦で歩くだけで満足なのです。このような幸多い境地を、若い時は想像も出来ませんでした。
何時かは一方が先に旅立ちます。それだからこそ林の中の道の散策が一層貴重に思えるのです。
老齢の皆様にはそのような経験がありますでしょうか?お二人そろって林の中の道を散歩する幸福をお祈り申し上げます。 (終わり)
写真 トウカエデ ドッグウッド ケヤキの林 ネズミモチ ドッグウッドの実
私は戦争中、戦後の貧しい日本で育ち、国家公務員として長い間働きました。戦後の日本は生活が貧しいだけでなく人々の心が荒廃している酷い社会でした。
そして国家公務員の職場では心の豊かさや品性を追及すると出世のしにくいところでした。どの旧帝国大学を何年度に卒業したか?、とか職場での役職の着任年度で人間の価値が決まっていました。
ある時、係長クラスに昇任し、その部署の会議に出席したときの驚きを今でも忘れられません。会議の席順が厳密に着任年度順になっているのは勿論ですが、机の上に用意されていた茶飲み茶碗が着任順に高級なものから質素な茶碗まで整然と並んでいるのです。大振りの陶器の蓋つきの茶碗から漆塗りの蓋のついた中級の茶碗、そして最後は小さめの蓋なしの茶飲み茶碗と並んでいるのです。
そんな世界に居た老人の私が、鬼家(オニイエ)さんという人に勧められ、PCの使い方を教えて貰ってブログを書き始めたのが2007年の11月5日でした。そして「みんなの足跡」や「趣味人倶楽部」や「BYOOL]というSNSにも入会しました。
そうしたら、なんと其処には目くめるような明るい、広い、豊かな世界が広がっていたのです。
ネット社会に住む人々は心豊かで、皆品性が良いのです。自分が体験したことの無い人間の善意で圧倒されてしまいました。そしてネット社会の人々は個性豊かに世界中に人生を繰り広げているのです。個人が輝いているのです。
役職の着任順に人間の価値が決まる職場に居た私にとっては、考え方を180度変更を迫る輝かしい世界が広がっていたのです。
カトマンズに住み込んで悠々とアジアの人々と哀歓を共にしているHikarunoさんのブログに魅了されました。手織り染めのアジアの布を情熱的に収集し、東京でも展示会を何回も開催しています。左にその収集品の一例を示します。しかし彼は今年の5月に肺がんで亡くなってしまいました。ご冥福を祈りながら彼の収集品の美しいアジアの手織り布の写真を左に掲載します。
このブログで「推薦したいブログ」を書いている鬼家さん、ちひろさん、玲さん、オカブさん、Hootaさん、木内さんは皆さん大変個性的で輝くブログを作っていらっしゃいます。その他、ワシントンDCに住んで世界中で活躍している音楽家、そして陶芸作家のAmadeusさんの感性の豊かさと、陶芸作品の気高さに感動しています。
こんなことを書き続けていたらキリが無いので止めます。
しかしもっと驚いたことは、毎日を平凡に暮らしている人々の心の豊かさと品性の高さです。毎日、書いていらっしゃるブログやSNSの中の日記を読むとそれが理解できるのです。
家族を大切にし、自分の個性を大切にして、豊かな気持ちで毎日を平凡に暮らしているのです。平穏無事な毎日に人生の充実感と幸福感を味わっているのです。これこそが日本人の豊かさの証拠と思います。品性の高さの証左と思います。
戦後65年、日本人はなんと豊かになったのでしょう!ブログを書いて、ネット社会に入らなければ、このような明るく輝く世界を知らないまま、死んで行った事と思います。ブログや日記を読ませて頂いた多くの方々、そして拙文へ心温まるコメントを下さいました方々へ心の底から感謝申し上げます。有難う御座いました。
平林寺で興味深い墓を発見した。1615年没、増田長盛の小さな、質素な墓石である。説明板がある。
長盛は豊臣秀吉の長浜城の近在のあるお寺の次男とし生まれ、秀吉へ仕え頭角を現す。朝鮮の役で兵站を担当し、食料・武器調達に大きな功績を残した。その後、秀吉の5奉行の一人として任ぜられ、徳川家康とともに活躍した。特に検地・税制のような財務行政に卓越していたようである。
やまとの国郡山、20万石の城主とし16年間、城下町の発展に尽くす。
しかし運命は暗転する。大阪の陣、関が原の合戦で徳川家康側に惨敗する。一族の多くは罪人になるが、長盛は高野山で僧になり、後に武蔵野国の岩槻で蟄居する。悲劇は重なる。
尾州家に仕えて大阪城へ入った長男、盛貞が合戦で死ぬ。1615年5月7日のことである。落胆した父、長盛が切腹したのは長男の死のあと20日後であった。
1615年没の長盛の質素な墓を岩槻から新座市にある平林寺へ移したのは明治になってからのことである。
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色々な疑問を考える。何故、家康は秀吉の5奉行だった長盛の死罪を免じ、岩槻での蟄居を認めたのであろうか?5奉行として共に働いた頃に、お互い友情のようなものを感じ合っていたのだろうか?
大和の国郡山の現在の住民は増田長盛をどのように評価しているのであろうか?
忘れられているか、あるいは、郡山の発展の功績者として尊敬されているのであろうか?
長盛切腹のときは平林寺は岩槻にあった。お墓が平林寺につくられたとしても不思議はない。その後、野火止用水を完成し、平林寺を新座へ移したのは徳川側の名家、松平伊豆守信綱である。
当時の平林寺の住職が気を利かせ、ソオーっと長盛の墓を岩槻へ置いてきたのであろうか? もしそうであるなら権力へへつらう俗っ気の多い住職ではないか?あるいは松平信綱が岩槻に置いて来いと命じたのであろうか?
徳川幕府が滅んだ明治時代になって平林寺に移されたということの背景にはどのような経緯があったのであろうか?
奈良県の郡山市、埼玉県の岩槻市、そして新座市というローカルな視点で波乱に満ちたひとりの武将の人生を考えると色々な疑問が湧いてくる。
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その他にも興味深い墓や宝塔、供養塔がある。下の写真に示すが、漱石の「草枕」の熊本県小天温泉の美人、那美さんのモデルになった女性の墓、武田信玄の5女の宝塔、島原の乱の供養塔である。那美さんのモデルの女性と異母弟の興味深い関係が説明板にあるのでご一読をお勧めする。2人は同じ墓に眠る。
これら3枚の写真の詳細は記録して来なかった。歴史的背景をご研究の方は平林寺事務所へお聞きになれば良いと思う。
撮影日時:2008年4月19日午前10時ー12時、撮影場所:埼玉県新座市、市役所向かい平林寺。