後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

過ぎ行く夏を楽しむ人々の群れ

2010年08月19日 | 写真

首都圏の海岸では車の乗り入れが厳重に禁止されています。しかし富士五湖も河口湖の奥の方や西湖まで足を延ばせば、車を湖岸まで乗り入れ自由な浜辺があちこちにあります。湖岸へ大きなテントをはり、水泳をしようが、ウンドサーフィンを楽しもうがまったく自由です。オートキャンプ場として入場料をとる湖岸もありますが、大部分は無料です。そんな自由に遊べる湖岸へ車を入れ、過ぎ行く夏を惜しむように楽しんでいる人々の群れの写真を撮ってきました。西湖で8月16日に撮った写真をお送り致します。

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長男だけを優遇した昭和時代の悲劇・・・yuyuさんの体験記

2010年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和時代は日中戦争や太平洋戦争があって戦死者が続き、悲惨な時代でした。その一方家庭内の日常をみると、長男だけを優遇するという封建時代の考えが強く残っていました。同じ兄弟姉妹として生まれながら、長男だけが大切に育てられ他のものは家を出て苦難の人生を歩むのが当然でした。そこには兄弟姉妹のあいだの差別がありました。食事の時にも父と長男だけが良いものを食べる家庭すらあったのです。現在から思い返すとそれは想像も出来ないほど厳重な家庭内差別でした。その悪習が次第に消えて行ったのは1970年頃から始まった経済の高度成長の頃からです。充分な高等教育も受けずに農家を出てしまった次男三男が就職した会社が隆盛し、給料も倍増したのです。家に残った長男よりも良い生活が出来るようになったのです。その次男三男が都会で家庭を持ち、子供が出来れば、長男優遇はしませんでした。悔しかった自分の経験から子供は皆平等に育てたのです。現在は長男だけを優遇した昭和時代の家庭の悲劇も忘れられています。しかし、父母や祖父祖母の生きていた時代の記録を残し、もう二度とこのような不幸なことが起きないようにしたいと思います。そこで昨日、コメント欄に投稿されたyuyuさんの体験記を改めてこの欄でご紹介いたします。

=========yuyuさんの体験記==========

人の運命というものがあるとすれば、貧しい家に生まれるのもその人の運命なのでしょうか。ところがその逆もあるのです。私の父は豪農の三男に生まれ、学校では常にトップだったのですが、頭の悪い長男だけに教育を受けさせたのです。

三男の父は、昔の商業学校へ。その上、父は道楽者の叔父の養子として家を出されたのでした。
父の成績を知ったのは,父の恩師の家に父に連れられていった時の事でした。父は金持ちの家に生まれたのに、上の学校へ行かせてもらえなかったのです。
成績の下の同級生が大学の教授で博士になっているのを何時も、悔しがっていたのを思い出します。
養父の叔父は事業に失敗して、北海道へ逃げ、父を魚屋の丁稚に行かせたのでした。そこで腕を磨いたところで、故郷へ帰り,開店。父の腕の良さは次第に有名になり、大手の客は彼のお作りを遠くから注文してくるようになり、番頭も3人にもなりました。

政治力ある叔父は魚業界の組合長になりました。

父がその後結婚し、兄と私の男ふたり子供を生みました。その父の幸福の最中、赤紙が来たのです。支那事変の時です。衛生兵だった父は負傷者を手当中に,中国の敗残兵の狙撃を受けて右大腿部貫通銃走の負傷で、帰還です。店は番頭たちが何人もいて盛大でしたが、大東亜戦争で次々に番頭が徴兵され、足の悪い父は家業を続けられなくなりました。
その上、日本は負け戦でした。そこへ空襲で、父の里へ疎開。畑違いの衣料の商いに仕事買えです。古物しかもののない時代ですから、古物商が正式名称でした。
それでも、近郷では知らない人のいないほどの名家ですから、父の商いは繁盛しました。ちょうなんの兄が大学へ。その長男の学費をのために,残っていた在村地主としての田んぼを売り払いました。
本家の伯父や女房である母までも父を甲斐性がないと口にすることが多くなりました。兄弟も4人になっていましたが、他の三人は父を母の味方につきました。私一人が不運な父を気の毒におもいました。恩師と会って父の生い立ちを知ったからでもありました。
受験を前にしていた私は勉強より父の手伝いをしました。父が大好きだったのです。働くことは誰にも負けない人でした。そんな父の生き甲斐は子供の成長。何処へ行ってもほめられる我が家の4兄弟でした。全部学校で一番の成績でしたから、知れ渡る兄弟でした。
ある時、母を熱海の温泉に連れてゆくと東京経由でヤミ米を背負って出かけました。大宮で取締にあって,それらは全部没収です。
運の悪いのは父だけではなく母もまた不運の人と私は思うようになりました。しかし,そんな父が兄弟の中で私だけが大好きでした。
金儲けは下手でも、人の世話をすることは親戚中で尊敬されていました。筆を持たせれば高等科しか出ていない人には思えない達筆です。町や村の行事には欠かせない人でもありました。当時、盆踊り流行の時に,不良たちがまちへ押しかけで,困っていました。駐在さんと私服で、不良が因縁つけるのを待って、逮捕する。そんな手伝いもする父でした。「伊達に球の下をくぐったんではない」のセリフは与太者たちまで恐れさせる元気な父でした。運に見放された人と言われても仕方のない父でした。(終り)

=====悲しい体験記ですが父への暖かい愛情が!=======

上の手記には農家の三男として生まれた父の過酷な人生が克明に描かれています。昭和という時代の農村の家庭生活の記録として後世に残したい文章です。しかしyuyuさんの父へ対する暖かい愛情が書き込んであり読後感にほのぼのとしたものがあります。手記を寄せてくれたyuyuさんへ感謝してこの記事の終りと致します。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人