後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は日曜日なので、キリスト教の真面目なある宗派をご紹介します

2010年08月08日 | 写真

アメリカの東部や中西部には自動車、電気、ガス、水道を拒否して、中世のヨーロッパの農村生活を現在でも続けているアーミッシュという人々が住む村が散在しています。ルターの宗教改革で生まれた純粋原始キリスト教の一派で絶対平和主義の信仰を守っている人々です。

その生活ぶりの写真をお送りします。特に3枚目の室内の写真を注意深くご覧下さい。部屋には電燈が無く、薪ストーブが中央にあるだけです。衣類も壁にぶら下がっているだけで、何枚もクローゼットに並べて吊るすほど沢山持っていません。下着は箱に仕舞い、農作業と礼服を共用する服を毎日着ています。農作業にはトラクターは一切使いませんので、4枚目の写真のように馬車と人力だけで刈り取りを行います。

上の3枚の写真の出典;http://en.wikipedia.org/wiki/Amish

4枚目の写真の出典http://en.wikipedia.org/wiki/Amish

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「現存する中世の村人たち」ーーアーミッシュ村の民宿に泊まるーー

アーミッシュの村に入ると、「路上で黒塗り箱型の馬車が近付いたら徐行すべし」という意味の絵看板が増えてくる。周りは一面の実り豊かな麦畑。その間に牛馬がのんびり草を食む牧場が散在し、素朴な木造一階建ての農家が栃の大樹の木陰に見え隠れしている。

看板通り、黒塗りの箱形馬車が近付いて来る。慌ててブレーキをかけ、徐行しながらすれ違う。手を挙げて挨拶をすると、黒いシルクハットをかぶり、襟の小さな黒い背広を着た老人が目を上げないで、手をわずかに振って挨拶を返す。

麦畑では刈り取った麦束を馬車に積み上げている。農夫はさすがに上着を脱ぎ、黒いチョッキ姿で汗を流しながら一心に働いている。

アーミッシュに車で観光に行った場合のマナーを大学の同僚が教えてくれた。

「御土産店、喫茶店、民宿の前以外の道端に絶対車を停めないこと。馬車が見えたら急いで減速し徐行せよ。必ず挨拶をすること。しかし相手の目を見たりしない。もちろん話し掛けてはいけない。女性は黒い長い服を着ているが、車と馬車がすれ違う時、前から覗き込んではいけない。アーミッシュ専用のスーパーマッケットがあり、黒い馬車がたくさん止まっているが、スーパー店内へ入ってはいけない。ソーッと遠方から眺めるだけにすること」「御土産店では村への入場料のつもりで多めにチーズやヨーグルトを買って上げなさい」・・・・・

そんな村の民宿に泊って来たのは1990年の事、もう20年も前の事だが鮮明に記憶しています。こんなキリスト教の一派もあるのです。


秀吉軍に拉致されて来た朝鮮陶工達のその後の運命

2010年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

陶芸芸術家のyuyu さんから拉致されて来た朝鮮陶工達のその後の運命についてコメントを頂きましたので広くご紹介したいと存じ、このページに転載させて頂きました。なお、yuyu さんのご活躍はHP:http://yuhoh.hp.infoseek.co.jp に詳しく出ています。

=====yuyu さんからの情報提供です===========

歴史は繰り返すでしようか。日本の拉致家族のみなさんの悲しみは私たちには想像を超えたものだと思います。そして、拉致は許される行為ではありません。

しかし、秀吉の出兵は織田信長が南蛮、朝鮮の焼き物を愛した影響を受けた武将たちは、こぞって、陶工家族ごと連れ帰ったと言われています。
同じ焼き物を作るものとして、その技術が九州全土と西日本に拉致家族によって伝えられたことを承知しています。
今日、国籍もあちらのままの人もおります。
各藩が彼らを大切に扱ったのも事実です。探し当てた陶石や粘土によって違った焼き物が作られました。
天草地区から採れた陶石によって、磁器が作られて有田、鍋島、西日本の萩です。
対岸の故郷を偲んでいたとも聞きます。萩は地形なのか藩の事情なのか、窯を作る上で萩になったのか定かではありませんが、萩には土はなく、粘土は山口近くから採れるものが主なのです。
徳川時代には朝鮮と国交が出来ると、朝鮮の特使は大勢の拉致家族を連れ帰ったとも言われています。
反面、家族子孫が定着して、日本に安住したいと願って、残った人たちもいると聞きます。
だから、拉致を容認するものではありませんが、戦争を足場に蛮行が行われたのは事実です。

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豊臣秀吉によって拉致され日本に来た朝鮮陶工たちの中で三人だけを知っております。

李参平(or李三平):肥前の国(佐賀県)有田焼の生みの親。 この地で陶土の発見に始まり、今も陶業が盛んです。 後継の子孫は不明。かっては近くの港(伊万里)より欧州へ輸出したので、伊万里焼の名前も残されております。(
李参平: 自身は子孫ではなく、本人そのものです)

沈壽官: 薩摩焼(鹿児島県)の窯元。 現在は第15代が家督を継いでおります。

東郷重徳:日本の外交官、政治家。 太平洋戦争開戦時および終戦時の日本の外務大臣。没年1950年 67歳。

3名は朝鮮人陶工の子孫。 秀吉軍に参加した藩主たちが藩の「陶業」育成・発展のために陶工たちを保護、優遇した。 しかし、望郷の念に大いに駆られたことでしょう。(終り)


秀吉軍は多数の朝鮮人を拉致して来たのです・・・おたあジュリアもその一人です

2010年08月08日 | インポート

秀吉軍の朝鮮攻略は勝ち戦と言われています。そして朝鮮から多数の陶工を拉致し、連れ帰りました。九州地方で上質の陶磁器が焼かれるようになったのはその拉致されてきた陶工たちのお陰です。秀吉軍の拉致の実態は記録にあまり残っていません。しかし優秀な人物や美人も拉致して来たに違いありません。

以下に書く「おたあジュリア」もその氷山の一角のように思えます。

2006年に満70歳になったので仕事を一切止め、前々から行きたいと思っていたロマンチックな土地を訪ねる旅をはじめました。

まず、伊豆七島の神津島へ遊びに行ったのです。東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島です。山ばかりで平地が無く、船の着けられる簡単な桟橋が島の東西の両側にあります。風向きによってどちらかを選ぶのです。一人旅の気安さで島の民宿に投宿し、燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞きました。明日、見物すべきところも説明しくれながら、急に声をひそめて言うのです。 

「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」

「それは誰ですか?」

「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。日本に来てからキリシタンになったのでここへ流された女です。当時の島の人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」

「何故そんなに声をひそめて喋るのですか?」

「おたあ、を島の人々が助けて保護したのです。キリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」

「それで?」

「おたあ、は立派な女です。元気になると島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、人々を勇気づけました。皆尊敬し、おたあは本当に優しく賢い女だったのです」

「分かりました。でも今はキリシタンへの弾圧もない自由な時代です。何故小さな声で話すのですか?」

「島の人々は今でもおたあ、のことを尊敬しています。小さな声で話すことで尊敬の念をあらわしているつもりなのです。まあ、つまらない話かもしれませんが」

「神津島の人々だけの小さな秘密ですね?」

「まあ、秘密って程でもありませんよ」とニコニコし、宿の主人が満足げな様子です。

現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものと再度、感じいりました。

帰宅して調べてみると、おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の幼女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かりました。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首されます。

その後、おたあは家康の側室になったが家康の言いなりになりません。桃山、江戸、駿河と監禁され、移され、禁教令と共に神津島へ流刑になったのです。慶長17年、1612年のことです。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もあります。

毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」があります。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でジュリアの慰霊祭を行っています。

尚、ジュリアの終焉の地には諸説があって、神津島から天国へ昇ったのかは定かではありません。

写真4枚は上列左がジュリアの姿、その右が神津島にある記念塔(お墓と想定されていた)。下列左は韓国、切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓(1972年日韓の友情による移設)、その右の写真は荒れる太平洋の波の様子です。なおジュリアの姿絵は、http://shl.holy.jp/text_gospel/julia.html から転載しました。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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