このブログにも書きましたように私は自分の山小屋に寝ている間にヤマヒルに襲われ大変気味の悪い体験をしました。いろいろ調べていましたらヤマヒルの忌避剤を見つけました。「昼下がりのジョニー」というスプレイ剤です。購入し、使っています。
それを開発したベンチャー企業、株式会社エコ・トレードの西村隆宏社長さんへメールを送りました。そしてベンチャーを起こしたいきさつについて記事を書いて下さいとお願いしました。すぐに大変面白い手記が送られて来ました。2回に分けて掲載させて頂きます。
========西村隆宏さんから送られて来た手記======
後藤さま
ありがたいご提案をいただきまして、ありがとうございます。
まだまだ成功というレベルではありませんので、恐縮しておりますが、素直にご提案に沿って、お伝え申し上げさせていただきます。
・・・〈起業のいきさつ〉・・・
当時、選挙に出馬&落選を経験して、これから何をしようか!?と、迷いきっていた時期でした。また、円満な家族とは言いがたい状況だったため、現状を打破したい思いでいっぱいでした。
近所の場末の居酒屋で、思考しながら(迷いながら?)一杯やっていたとき、楽しそうに呑んでいる社長に出会いました。
お話を伺っていて、意気投合して、共通の趣味である渓流釣りに行くことになり、10歩歩けば3~4匹ぐらい足元にヤマヒルが這い上がってくるという状況に遭遇しました。
非常に気分が悪く、数匹釣ったところで、そうそうに引き上げてきました。
その気分の悪さがきっかけとなり、「山仕事をしている方々は大変だろうなぁ…」
「渓流釣りをしている人はずいぶん被害に遭っているだろうなぁ…」
「登山者も気分悪いだろうなぁ…」との思考が生まれ、開発できる自信などなかったのですが、その社長さんにアイデアをいただき、帰り道でヤマヒル忌避剤の研究開発を決めました。
それと同時ぐらいに、頭の中では、母から聞いた祖父の姿を思い出していました。以前、祖父は静岡県清水で魚粉製造会社を経営しており、魚粉製造するに当たり、機械まで自作する創業者だったそうです。戦後、三重県に住んでいたのですが、戦争の影響で、故郷である小笠原出身の親戚縁者の生活を維持するため、清水に移住して、魚粉会社を立ち上げたそうです。製造しているのが魚粉なので、かなり臭く、母は学生の頃、学校ですごくからかわれたようなのですが、祖父の口癖は、「ひとが嫌がる仕事をすることも大切なこと」と、モクモクと仕事をしていたようです。
いろいろあって、会社は倒産したのですが、大好きな祖父でした。なぜか、そんなことを思い出していました。
帰宅するや、ヤマヒルに関する情報を集め、社長にいただいたアイデアをもとに、さまざまな溶剤を作り、捕まえてきたヤマヒルにかけて実験を繰り返しました。
この当時は、友人にまで変人扱いをされました…(苦笑)自然環境(特に水)を汚さないように、危険性のある薬剤を使用しないこと、効果が持続することに注力しました。その結果、ネバネバする使用感の悪さはありますが、「使用者の方々のご判断をお任せする」という決断もしました。3年前の春、ようやく販売できるようになったのですが、どのように販売したらいいのかもわかりませんでしたので、ヤマヒル被害地域の登山口でチラシを配り始めました。
「ヤマヒル被害で、困っている方々がいるのだから、かならず売れる!」と信じて毎日営業に出ましたが、なかなか結果が出ません。そんな矢先、父が急死しました。
親孝行らしいことをしていなかったので、「何が何でも成功する!」と誓いをたて、どんな状況でも家族を大切にしてきた父の存在に感謝して、不安を打ち消しながら営業活動を続けました。
その後、ネーミングの効果も手伝い、新聞、雑誌などに取り上げられるようになりました。大手アウトドアショップで取り扱いをしていただくようになり今期からは全国森林組合連合会の系統購買商品にもしていただきました。
初年度の販売本数1550本、
2年目の販売本数3691本、
3年目の販売本数7月末で4741本と順調に販売本数を増やしておりますが、
まだまだ経営が成り立つ状況ではありません。(続く)
1966年、富士山の麓の足和田村の根場集落が土砂に流され、壊滅し、97名の人が死んだのです。新聞でも大きく報道されたのでご記憶の方も多いと思います。当時、私は大岡山の大学に居ました。どういう訳か忘れましましたが、そこの地震学者と一緒に災害のあとを見に行き、土砂の流れの原因を聞きました。とてつも無く巨大な台風が来て、根場を取り囲む山々に集中豪雨が降ったそうです。全ての山の表土が地下2mくらいまでドロドロに溶けてしまい、樹木の根が浮き上がり、泥と倒れた樹木が一挙に山の斜面を流れ下ったそうです。根場の村落のを囲む3つの山が流れ下り、村落の場所で合流したのです。兜造りの茅葺きの農家が、襲って来た泥と樹木でアッという間に破壊され、粉々になりながら西湖の方向へ消えていったのです。住んでいた人々は避難する間も無く、全員流されました。負傷して生き残った人もいました。しかし根場とその付近合わせて97名の人が亡くなったのです。自衛隊が出動して必死の捜索をしましたが、97名の死者のうち13名はいまだに死体も見つかって居ません。
その根場の村落のあった場所に、「西湖いやしの里・根場」という観光スポットが出来ました。兜造りの茅葺きの農家を十軒くらい復元して公開しています。
あれから44年になります。昨日、訪問し、受付のそばに居た案内の老人と、当時の話を少しだけしました。観光客がどんどん来て、嬉しそうでしたが、一瞬悲しそうな表情を見せます。「いやしの里」とは訪れた人々がいやされるという意味ですが、私は犠牲者の霊をいやす意味もあると信じています。村人はきっとそういう気持で命名したのです。犠牲者の冥福を祈りながら写真を撮ってきました。
下の写真は上から順に私の気持ちを表したつもりです。一番上は黒々とした家ですが、私には97名の犠牲者の墓標のように見えました。二番目の写真は、亡くなった人々の霊がお盆に帰って来ても、温かく迎えてくれるような村落の佇まいのように見えました。そして3番目の写真は、富士山が村落の先祖や残された家族をいつも暖かく見守っているように見えました。写真の撮り方が下手で、私の気持ちうまく表わせていないところはご想像で補って下さい。
今日は皆様のご健康と、そして根場の死者の冥福の為に御祈り申し上げます。藤山杜人
(西湖いやしの里・根場のHP:http://www.fujisan.ne.jp/iyashi/ )