後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ついでにもう一枚つまらない写真をお送りしたす

2010年08月12日 | 写真

山梨県の甲斐駒岳の麓の山小屋の近辺では日本鹿や、雉や、日本猿の姿をよく見かけます。

しかし写真に撮るのは至難の業です。彼等は実に素早く逃げてしまうのです。ところが今日は猿が4匹、行く方向の道路の上にいるのです。車内から一枚撮るのがやっとでした。

イノシシは小屋の回りを掘り返したり、悪さをしていますが、神経質で姿を絶対に見せません。

つまらない写真を先程4枚お送りしましたが、ついでにもう一枚お送りします。4匹の猿をご覧下さい。

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鹿の増加とヤマヒルの大繁殖・・・35年間で初めての珍事です

2010年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

この前の日曜日、山小屋に泊りました。山道で可愛い親子連れの鹿に会いました。時々会うのですが、何時も同じ林の中です。樹木が邪魔して、その上暗いので写真には撮れません。嬉しいものです。その夜は新鮮な空気を楽しみながら寝ました。

朝、起きたら足の2ケ所から血が流れていて、シーツが血で汚れています。寝ている間にヤマヒルが来たのです。こんな事は初めての事なので大変ショックを受けました。帰宅してからヤマヒル対策を検索していろいろ調べてみました。

日本の山地で鹿が増えている一帯にヤマヒルが爆発的に繁殖しているという情報が見つかりました。ヤマヒル専用の防除薬もあります。「昼下がりのジョニー」というスプレイ式の薬です。早速注文しました。

今日は雨でしたが中央高速道路をとばして小屋へ行き、ジュータンの裏まで真空掃除機をかけました。強力な殺虫剤を噴霧し、とどめにバルサン薫蒸をして窓を閉め切って帰ってきました。ヤマヒルはナメクジの様なものなので塩を撒いておくと嫌がって来ないと言います。部屋中に塩を充分にまいて来ました。

別荘管理組合の総会が私の小屋の庭であるので、今週の土曜日と日曜日は泊まります。もうヤマヒルは出ないようにと願っています。しかし先方にもいろいろ都合がある事でしょうから、又出て来るかもしれません。雨で暗い日でしたので美しい写真は撮れませんでした。下に小川の魚道の写真と、帰りがけに道端で撮った花の写真をお送りいたします。詰まらない写真でご免なさい。

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残暑お見舞いいたします・・・高原の草花の写真をお送り致します

2010年08月12日 | 写真

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今年は本当に暑い夏でした。台風が日本海を北上し、酷暑も峠を越したようです。

残暑をお見舞い致します。涼しげな高原の花々の写真をお送りいたします。爽快な高原の風をご想像なさって涼んで下さい。

標高2000m位の高原の連なりには白いシシウド、ギボシ、青いツリガネニンジン、ピンクのヤナギラン、オレンジのキスゲ、コオニユリ、そしてフジバカマ、アザミ、などなどの花の群れが咲いています。写真を撮っていると乾いた涼風が吹き渡り花々が揺れています。都会の暑さが嘘のようです。涼しい風をご想像されながら写真の花々をお楽しみ下さい。

撮影場所:長野県、白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原、撮影日時:2008年8月5日午前中、撮影者:Mrs.藤山


ベルリンの壁、そして共産主義の崩壊・・・20世紀の狂気の終焉

2010年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

 1989年ベンリンの壁が壊されてソ連が解体した。国際間の緊張が一気に無くなった。思い返すと1917年の共産主義政権がソ連に出来てから実に72年後です。20世紀はイデオロギーと戦争の世紀でした。共産主義と資本主義が激しく争い、ついに共産主義が終焉したのです。無産階級として虐げられた労働者や農民が革命を起こし、完全に平等な社会が出来るという希望が粛清と圧政に喘ぐ結果になったのです。ソ連や中国やベトナムが共産主義を大きく変革し、開放・資本主義経済へと舵を切ったのです。その象徴がベルリンの壁の崩壊です。

ヨーロッパ諸国の人々は第二次大戦終了の1945年から1989年までの44年間、ソ連の軍事侵攻を日常的な脅威として恐れていたのです。

海を隔ててソ連と対峙していた日本人には理解出来な恐怖です。

そのヨーロッパ人の本音を私の体験から書いて残して置きたいと思います。

            
        @闇夜の雑木林を歩くスウェーデン人

1975年にバウクさんというスウェーデンの青年を甲斐駒山麓の山小屋へ招待しました。夕食のために自分で燻製にしたマスと、大鍋のチキンスープの用意が出来上がりました。秋の夕日が落ち、闇夜になってもバウクさんが雑木林から帰って来ません。石空川の崖から落ちたのか?と私達が心配し始めた頃やっと帰って来て、スープの大鍋のかかっている焚き火の傍の椅子に座りました。

「随分心配しました。よく真っ暗な雑木林で迷いませんね?」「軍隊に徴兵されて2年間訓練を受けました。闇夜の雪原で方向を間違わないで行進する訓練も受けました。星と手元の磁石で方角を決めます。磁石を10分置きに止まって注意深く見るのです。歩きながらでは駄目です」「スウェーデンの若者は皆軍隊へ行くのですか?」「そうです。原則として徴兵です。除隊後も毎年数日間の訓練があります」「何故そんなに軍事訓練にこだわるのですか?」

「祖国防衛の為です。間も無くベトナム戦争が米国の敗北として終わります。ベトナムへ多量の武器援助をしていたソ連に余裕が出来ます。アメリカの敗北を好機とみてフィンランドやスウェーデンへ攻め込んでくる可能性が大きいのです」「西側はそんなに緊張しているのですか?」「ドイツには米軍も駐留していて、侵攻が難しいので必ずスカンジナヴィア半島へ攻め込みます。フィンランドは親ソ的なのでソ連軍の無血通過を認めるでしょう」

         @ポーランドへ移住するバウク青年

1980年ころストックホルム工科大学で工学博士を取るとバウク青年はポーランドの鋳物会社へ就職し移住してしまった。スウェーデンの防衛を情熱的に話していた彼がいとも簡単に共産圏のポーランドの会社に就職したので何か騙されたような感じを受けた。しかし毎年クリスマスカードが届く。別紙に鋳物会社の中の仕事の様子や家族の様子を直筆の英語で詳しく書いてある。日本人でもこんなに親しげな私信をくれる人は多くは居ない。詳しい手紙の内容には共産主義のことやポーランドの生活の現実については何も書いていない。きっと検閲が厳しいために違いない。何故、民主主義のスウェーデンから共産党独裁のポーランドへ移住したのか?バウク青年の人間としての誠実さに深い疑問を感じつつ時が流れた。

         @ベルリンの壁の崩壊で深い疑問が氷解する

989年のゴルバチョフのソ連解体政策に従ってベルリンの壁も破壊された。遠方の日本では直接的にその衝撃は感じられません。ただその後で来たバウクさんの手紙には溢れる喜びが描かれています。「私ども一家は第二次大戦後、ソ連を嫌ってスウェーデンへ亡命、移住しました。多くのポーランド人もスウェーデンへ移住しました。受け入れてくれた国へ恩返しで軍務につくのは当然です。ストックホルム工科大学に居る間、ポーランド本国のソ連の締め付けがそんなに厳しくないという情報を得ました。そこで思い切って1980年に移住したのです。この様子を書いて報告出来なくて失礼しました。私はもともとポーランド人です。ゴルバチョフさんのお陰でソ連の世界共産革命方針が放棄されポーランドにもやっと自由がやって来ました。ベルリンの壁の崩壊後、西ヨーロッパに亡命していたポーランド人が続々と帰ってきています」そして「ポーランド人は東郷元帥の頃から日本人を尊敬し、親しい感情を抱いています。」と結んであるのです

ベルリンの壁の崩壊は冷戦における米国の勝利のシンボルです。ポーランドだけでなくチェコ、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、バルチック3国などから、西側自由圏へ移住していた、多くの人々が奔流のように祖国へ帰っています。この小さな私自身の体験から二つのことが分かりました。

第二次大戦後の1945年から2,3年間に東ヨーロッパ諸国から多量の難民が西側へ移住したのです。その難民が1989年のベルリンの壁の崩壊でまた東ヨーロッパ諸国へ帰って行ったのです。

この大量の難民の移動には必ずいろいろな悲劇がつき纏っていたのです。

遥か極東にある日本はこの悲劇に見舞われなかったのです。幸運な島国です。そのようなヨーロッパの悲劇を想像すると共産主義のもたらした大きな悪が実感できます。その狂気の時代も終ったのです。21世紀には決してこのような事が起きないようにお祈りいたします。

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皆様のご健康と平和な21世紀をお祈り致します。藤山杜人