後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私達の真ん中にイエス様が立っていらっしゃる

2010年09月23日 | 写真

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今日はカトリック小金井教会の亡くなった全ての信者の為の追悼のミサがありました。この4月まで主任司祭だった山本量太郎神父様が久しぶりに来てミサを司式して下さいました。今日のミサは特に年に一回のグレゴリオ聖歌による歌ミサでした。訓練を積んだ信者の合唱隊が美しいラテン語の聖歌を歌ってくれました。

山本神父様の説教は、「私達の真ん中にイエス様が立っていらっしゃる」という主題で話を進められます。聖歌を歌っている間も、そのイエス様へ向かって歌って下さい。そして亡くなった全ての人々の為に御祈りして下さい。亡くなられた方々も皆様の為に祈っています。そして亡くなられた方々と一緒になって祈りましょう。そのようなお話でした。いつもそうですが、山本神父様が司式をすると、本当にイエス様が祭壇の前に立っているのです。山本神父は自分の弟子を作らないで、信者を皆、イエス様の弟子にしようとしています。久しぶりにイエス様のお姿を見ることが出来ました。

グレゴリオ聖歌が一年間練習をしただけに流石に素晴らしい4部合唱でした。昨年二度だけ参加した神田のニコライ堂の正教会の歌ミサを思い出します。

亡くなった両親、家族、そして全ての人の為に御祈り致します。            シルベスター藤山杜人

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お彼岸になると亡くなった人を思い出す・・・一度だけ会った本田宗一郎さんの思い出

2010年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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お彼岸になると亡くなった人を思い出します。亡くなった父母や家族のことを鮮明に思い出します。そして一度しか会わなかったのに忘れられない人のことも思い出します。一度だけ会ったが印象が深い人です。そのような人に本田宗一郎さんがいます。強い個性とその元気さは今でも忘れられません。とにかく元気な方でした。もう20年以上の前のことです。

◎米国で尊敬される本田宗一郎

1988年、オハイオ州立大学で働いていたとき、本田宗一郎氏がオハイオ・ホンダ工場を視察に来た。工場はフル操業しており地元経済は活況を呈していた。地方紙が一面トップで本田氏来訪を伝え、翌日の新聞には黒人の労働者と握手している写真が大きく出た。広大な工場を視察し、多くの労働者と親しく会話し、握手をしたと報じた。

アメリカの大企業幹部は工場労働者とは握手をしない。食堂もトイレも社員と労働者は別である。ところがホンダ工場は一緒。本田氏は「自由と平等」をホンダ工場の中で徹底した英雄といえる。

よく知られているように、本田氏は小さなオートバイ工場を出発点にして、世界中に乗用車製造工場を建設した。この話はアメリカ人の好むアメリカン・ドリームの物語である。飾らない開放的な人柄も手伝って、多くのアメリカ人に尊敬されている。

@面白い体験

オハイオに住んでいると、日本人という理由で親切にされる。ホンダ工場のおかげである。近所のガソリンスタンドで車を修理してもらった。「日本人か?」と修理工。「そうだ」「ならホンダ工場の日本人に頼んで就職できるよう話をつないでくれない?」

ホンダ工場とは付き合いが無い。1週間後にホンダの採用窓口の電話番号を調べて教えたら、「有難う!忘れていなかったのが嬉しい」。アメリカ人に頼まれたらできる範囲のことをしてあげる。なぜそこまでしかできなかったのかを説明する。

学科の同僚教授へ呼び掛けてホンダ工場を見学に行った。緑輝く牧場に囲まれた工場は隅々まで清潔で、労働者は色々な人種が混じっている。組み立てラインでキビキビと正確に部品を取り付ける。こんなに楽しそうに働くアメリカ人の集団を見たことがない。一緒に行ったアメリカ人教授も皆この集団に圧倒されていた。

アメリカの頭痛の種はリンカーン大統領の昔から人種差別の問題。ホンダ工場では黒人も白人もアジア人も同じ組み立てラインに平等に働く。ラインはいつも動いており、チームワークが絶対に必要である。声を掛け合って部品の取り付けが遅れたり不完全になったりしないようにする。

「黒人と白人が一緒に楽しく食卓を囲む日が必ずやって来る!」―暗殺された公民権運動の黒人リーダー、キング牧師の言葉を思い出す。ホンダの組み立てラインをキング牧師に見てもらいたかった。

@本田氏を訪問

その年の初冬、オハイオの恩師夫妻と東京駅八重洲口のホンダ会館へ本田氏を訪問した。目的はホンダ工場と大学との共同研究をお願いすることだった。本田氏は機嫌がよかった。戦前に芸者さんと飛行機に乗った話、初めてオートバイを作ったころの話、マン島レースでの優勝の話などを楽しそうに語ってくれた。

民間企業から研究費を貰う交渉に抜群の能力を発揮する恩師が本田氏の話をウットリして聞いている。上気して、尊敬の眼差しで本田氏の顔を見上げている。帰途、「終始黙っていましたね。研究費を貰う話はどうなったのですか?」と聞くと、「そんな話は出せなかった。お話を直接聞けたことが人生で二度とない貴重な体験だった」。そして、その後間もなく本田さんは天寿をまっとうして亡くなった。

オハイオ州立大学のアメリカンフットボール競技場には、本田さんが寄付した巨大な電光掲示板が現在も立っていると言う。あれから茫々20年。今日はお彼岸の中日、本田さんのご冥福を心からお祈りします。皆様はお彼岸にどのような方を思い出しますでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

                 藤山杜人

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