信玄の生まれた積翠寺は甲府盆地を見下ろす険しい山懐にあります。車で登って行くと雨雲が山にかかり陰鬱な雰囲気です。信玄の父の信虎が戦いに行っている間、暗殺を恐れた正室の大井の方が隠れて、長男の信玄を産み落としたのが積翠寺です。なにもこんな侘びい山の寺に隠れて子供を産む必要が無いと思います。しかしそれが殺伐とした戦国時代の生き方でした。山の寺の暗欝さに心が寒くなります。
晴信(後の信玄)は1521年に積翠寺で生まれ、1573年に上洛の途中の三河で病気になり死にます。満52歳の短い人生でした。
母、大井の方は甲府盆地の西の方の国衆領主であった大井信達の娘でした。夫であった信虎が1541年に長男の晴信によって駿河へ追放されたとき、正室の大井の方は同行しないで甲府の館に留まりました。夫より息子のそばに居たかったようです。現在でもよくある場面です。信虎と信玄の不和は性格の相違と、信玄の領地拡大戦争へ信虎が反対したためと想像されます。
武田家の初代、信義は周辺の領主を倒し、甲斐の国を統一しました。それから19代目の信玄は野心家で甲州だけであきたらず、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有したのです。織田信長や徳川家康と張り合う大型の戦国大名でした。
したがって現在でも甲府盆地の中では郷土の英雄としてとても大切にされています。甲府盆地に入ったら信玄を褒めないと人間関係がおかしくなります。その反対に甲府盆地の西側の高遠、諏訪、や東の大月へ行くと信玄に占領された歴史があり評判が良くありません。その事は次回に少し詳しく書きます。
下に積翠寺の写真を示します。9月28日に家内が撮影しました。