後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

武田一族興亡の地をめぐる旅(2)信玄の生まれた積翠寺と産湯の井戸

2010年09月30日 | 旅行記

信玄の生まれた積翠寺は甲府盆地を見下ろす険しい山懐にあります。車で登って行くと雨雲が山にかかり陰鬱な雰囲気です。信玄の父の信虎が戦いに行っている間、暗殺を恐れた正室の大井の方が隠れて、長男の信玄を産み落としたのが積翠寺です。なにもこんな侘びい山の寺に隠れて子供を産む必要が無いと思います。しかしそれが殺伐とした戦国時代の生き方でした。山の寺の暗欝さに心が寒くなります。

晴信(後の信玄)は1521年に積翠寺で生まれ、1573年に上洛の途中の三河で病気になり死にます。満52歳の短い人生でした。

母、大井の方は甲府盆地の西の方の国衆領主であった大井信達の娘でした。夫であった信虎が1541年に長男の晴信によって駿河へ追放されたとき、正室の大井の方は同行しないで甲府の館に留まりました。夫より息子のそばに居たかったようです。現在でもよくある場面です。信虎と信玄の不和は性格の相違と、信玄の領地拡大戦争へ信虎が反対したためと想像されます。

武田家の初代、信義は周辺の領主を倒し、甲斐の国を統一しました。それから19代目の信玄は野心家で甲州だけであきたらず、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有したのです。織田信長や徳川家康と張り合う大型の戦国大名でした。

したがって現在でも甲府盆地の中では郷土の英雄としてとても大切にされています。甲府盆地に入ったら信玄を褒めないと人間関係がおかしくなります。その反対に甲府盆地の西側の高遠、諏訪、や東の大月へ行くと信玄に占領された歴史があり評判が良くありません。その事は次回に少し詳しく書きます。

下に積翠寺の写真を示します。9月28日に家内が撮影しました。

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尖閣列島問題でなぜ中国政府が狂気のように理不尽なことをするのか?・・・想定される3つの原因

2010年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム

日本人は、カッカしないで冷静になって考えないと大変間違った判断をしてしまいそうです。今回の中国政府の理不尽な反応ぶりには何か深い理由がある筈です。以下に私の個人的な分析を書いてみたいと思います。

この問題を中国の国内問題として考えてみると意外に因果関係が明快に分かるような気が致します。そうすると、その理由を3つ程想像できます。

(1)中国の制海権のおよぶ東シナ海の海域を日中中間線を越えて沖縄列島近くまで拡大しようとしている長期戦略の第一歩のようです。

現在、東シナ海、南シナ海にはアメリカの原子力空母や原子力潜水艦が自由に巡回していて、その制海権はアメリカが握っています。それを中国側が取るために数年前から中国は海軍力を増強し、航空母艦まで建造中です。経済的に自信をつけた中国は軍備増強と制海権の拡大を長期的戦略としているのです。

(2)国際的に軟弱な友好政策を取ってきた胡錦濤国家主席と温家宝首相の権力再強化の目的で対日強固姿勢を打ち出し、軍部の支持を得ようとしたのが今回の原因の一つです

中国は国家主席や首相の権力が弱くなると、権力者は日清戦争から第二次大戦に至る日本の侵略の悲惨さを持ちだして、反日運動を繰り広げます。すると学校で習った日清戦争による台湾の領有や、1919年の対華21ケ条要求などで中国人の心の底に持っていた復讐心が頭をもたげます。政府がそれを煽りたてるのです。すると大衆はそのような権力者を熱烈に支持します。

(3)日米安保の現実的な効力を試すために強固姿勢と理不尽な要求をして日本とアメリカの反応を観察する目的もあります。

丁度、昨年来、普天間基地移転問題で日米安保が弱くなっています。アメリカは日本の防衛に情熱を失っているのです。そんな折にアメリカはどの程度日本の為に支援をするでしょうか?結果は明白でした。アメリカは口では日本を支援しましたが海軍の巡回強化はしませんでした。むしろ計画されていた米中の海軍共同演習をしました。これで中国は安心して制海権の及ぶ海域を日中中間線を越えて沖縄近海まで広げることが出来る勢いです。

さて上記は私の個人的な分析結果です。このような分析が日本のマスコミに報道されず感情的な記事だけがまかり通っている状態に心配を禁じ得ません。

原因が分かれば対策も立てやすいものです。

皆様はどのようにお考えでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

                         藤山杜人