後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

尖閣列島は日本固有の領土だという証明が薄弱すぎる!

2010年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム

尖閣列島の問題になると、多くの人々がそれは日本の領土として証明されていて議論の余地がないと平気で言います。

その言い方はあまりにも感情的であり、「客観的証明」というものをひどく軽々しく考えているようです。実に寒心に耐えません。

本来、証明とは欧米人もアジア人も全ての人々が納得する幾つもの証拠が存在している場合に使って良い言葉なのです。日本人だけが納得する証拠は幾ら数え上げても証拠になりません。

1940年まで日本人のカツオ節工場が存在していたから日本の領土だという証拠になるという主張は、全く証拠になりません。大日本帝国の軍隊に守られてカツオ節工場があったとしたら、それは武力領有で、敗戦後、中国側へ返還されるべきだと中国側は主張します。

証拠は先方も周りの国々も納得するものでなければ証拠と言えません。

韓国や台湾やフィリピンの人々に尖閣列島の領有権がどの国にあるか聞いてご覧なさい。日本ですと明確に答える人が何人いるでしょうか?

日本政府はこれまで尖閣列島が日本の領土だという証拠を作り、その事実を周辺国へ宣伝して来なかったのです。

勿論、住民に住んでもらい、自衛隊を常駐させ実効支配をする努力もして来なかったのです。固有の領土としての努力をしていないで巡視艇がいきなり中国漁船を拿捕すれば中国政府にうまく利用されてしまいます。

日本政府の自閉症的な発想と外交戦略の欠如が今回の事件があばきだしていると思っています。

さて貴方はどのようにお考えでしょうか?反論を頂ければ大変嬉しく存じます。


武田一族興亡の地をめぐる旅(1)初代、信義が元服した武田八幡宮

2010年09月29日 | 写真

武田一族で偉大だったのは初代の信義と19代目の信玄の2人です。一族の滅亡は信玄の次の勝頼の時です。織田信長・徳川家康連合軍の追撃で、甲府盆地を出て東の大月の岩殿城へ向かって逃げます。しかし岩殿城の謀反により途中の天目山で打ち取られます。1582年でした。その墓は天目山の麓の景徳院にあります。

今回の小さな旅は、武田家初代の信義が元服式をした武田八幡宮から始まって、信虎、信玄、勝頼の3代の屋敷、「躑躅ケ崎館」跡地(武田神社)、信玄が長野から移転させた甲州善光寺、そして天目山の麓の景徳院をめぐる旅をしました。

下の写真は平安時代末から鎌倉時代にかけて源頼朝、源義仲、と並んで覇を競い合った武田信義が館を構えていた韮崎市の武田の里に現存する武田八幡神社と武田の里の風景です。尚、写真の下のは、Wikipedeaの「武田信義」の項目からの抜粋文を参考資料として付け加えます。

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武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9

源清光の次男。逸見光長双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏四代目当主であり、武田信玄で名高い甲斐武田氏の初代当主である。大治3年(11288月15新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる(『尊卑分脈』に記述有り)。幼名を龍光丸・勝千代といった。保延6年(1140)、13歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。

治承4年(11804以仁王の令旨により、甲斐源氏を石和に集結させて挙兵し甲斐国の実権を握る(『山槐記』)。このとき信義は53歳であった。ついで信濃に侵攻し諏訪に進出する。その後、駿河国に進出して駿河目代橘遠茂や長田入道を討ち取り、平家本軍到着以前に駿河を占拠する(『吾妻鏡』)。平家本軍が近づくと弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の戦いにも参戦した。吾妻鏡によると駿河守護となったとされているが、実際には信義は実力で駿河を手中にしていた。その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、源義仲の三者が武家の棟梁として並立する時期が続く。


ガンの治療を断り美しく旅立って行った人の思い出

2010年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
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私のマイフレに英国に住んでいる65歳位の男性がいます。Zonサノバビッチさんという名前で文章を趣味人倶楽部で発表しています。

その方が12年前に亡くなった英国人の友人を思い返して、書いた文章を見つけました。メールのやり取りをして、その文章をここに転載する許可を頂きました。しみじみとした文章です。そして美しく旅立った人のためにお墓を作るのです。最後の数行をお読み下さい。この数行の故に、私はZonサノバビッチさんと知り合ったことを誇りに思っています。

ガンの治療を断って静かに人生を終えた人は無宗教でした。私はいい加減なカトリック信者で、このブログでもキリスト教の宣伝まがいの文章を沢山書いています。しかし何時も無宗教の人々へ対する敬意を滲ませた文章を書いてきました。それが本当に良かったとも感じました。是非ご一読下さい。

=====Zon・サノバビッチさん著、「バイバイ」==========

私は、自分の人生において、あれほど感動した経験を持たない。

深い深い寝息を立てられること数時間。それがあるとき止ったと思うと、何か「上品な退席」をされるかのごとく、すっと逝かれた。

ホスピスでのことであったが、前日「気分が悪い」と言われたとき、その翌朝に亡くなるということが、私には分った。 時間まで、、。朝4時。

ジャックさんは、その2週間ほど前、医者から直接自分が癌の末期症状にあることを宣告され、何ら取り乱すことなく、私にこう言われた。

「わしは、もう永く生きてはいない。今度はあの世で会おう。」

(因みに、そのほぼ2年前、膀胱に癌細胞が発見されたとき、「もう年寄りだから」という理由で、手術を受けることを拒否されている。)

このことを思い出すたび、私はいつも目頭が熱くなる。

ジャックさんは、宗教的な人ではさらさらなかったが、その逝き方は実に綺麗であった。事実あれほど美しい死を見たことがない。人間、あんなに綺麗に死ねるものであろうか。 自分の死に対して、何ら「見返り」を期待せず、潔く「バイバイ」と手を振って逝かれた。私はそこにいたく感動したのである。

身寄りと言って大しておられなかったジャックさんの没後の処理は、結局私がすることになったが、彼の遺灰は全身、私の今のグリニッヂの家の庭に埋めた。そして、その上に、灯篭を置いた。

ただ遺憾なことに、私、この極めて上質な人間でおられたジャックさんに必ずしもいつも親切であったとは言いがたい。

今にしてすまないことをしたと思っているが、そんなことを言っても始まらない。私に出来る最高の恩返しは、これからの人生、いかに全うに生きるかということだけであろう。
ジャックさんが逝かれたのは、12年前の5月1日、未明のことである。  享年88歳。

=========終り=============

皆様のご健康を心からお祈り申し上げます。 藤山杜人