後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ちひろさんの秋の花々の写真

2010年09月18日 | 写真

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何度もご紹介していますが、ちひろさんのブログから秋の花々のお写真をお借りして上に示します。ちひろさんのHPのアドレスは、http://www.eonet.ne.jp/~hanamusasi/ です。その表紙のブログの項目をクリックすると上の写真が掲載されていますが、もう一つ「デジブック」の項目をクリックすると鮮明で素晴らしい数多くの写真が動画でお楽しめ出来ます。

そして、ブログの方の文章が幸多い毎日の生活をさりげなく描きだしています。少女のように繊細で瑞々しい感情の揺れ動きが短い美しい文章で書いてあります。彼女は高齢の筈ですが、文章は全然年をとっていません。人間はいつまでも若々しくしていられるものです。その実例です。毎日、毎日ご家族を大切に愛しながら、丁寧に時間を過ごしていらっしゃるその生活態度に感動を覚えます。上に示す写真とともに、その文章の方も皆様に広く読んで貰いたいと思います。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。


アメリカの中近東の軍事戦略・・・軍事都市とカタール米軍基地

2010年09月18日 | 写真

1979年のイランの親米のパーレビ国王の追放と、ホメイニ革命以来、アメリカは中近東に大規模な軍事展開をしてきました。その反作用として2001年9月11日のペンタゴンと貿易センタービルの同時攻撃が起きたと考えるのが自然です。

下にサウジアラビア国にアメリカ軍が作ったキング・ハリド軍事都市の衛星写真と米軍基地を提供しているカタールの首都、ドーハの写真を示します。

キング・ハリド軍事都市の八角形の一辺は1kmで直径はやく3kmという巨大な基地で、湾岸戦争やイラク占領作戦ではここから出撃した米軍が重要な役目を果たしたと言われています。

写真の出典は、上がWikipedeaの「キング・ハリド軍事都市」の項目にある写真で、下は同じく、「カタール」という項目の中にある写真です。詳細な説明をお読み頂くとアメリカの中近東の軍事戦略の規模壮大な様子がお分かり頂けると思います。それぞれのURLは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%89%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E9%83%BD%E5%B8%82 と http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%ABです。

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治療を受けない老人の深い理由・・・そして家族の想い

2010年09月18日 | インポート

昨日、「病気の治療をしない老人達の立派な見識」という記事を書き、自分の見識で最後のほうの治療を受けない人も立派ですという私の感じ方を掲載しました。しかし治療を受けない老人の回りの家族は悲しみます。ですから家族の立場からの反対意見を頂けるのではないかと思っていました。趣味人倶楽部の2人の方々からそのような趣旨のコメントを頂きました。転載してご紹介したいと思いますが、かなり個人的な情報が含まれていたのでその趣旨だけをご紹介します。

その一つ、さびーぬさんのコメントでは、7年前に亡くなった御父上の80歳での大動脈瘤の手術の事が書いてありました。そして1年以内に癌が見つかって、2ケ月間治療も出来ないまま亡くなったのです。その御父は幼い頃、両親を失い、祖父母も次々に亡くなり14歳で天涯孤独になったのです。そのような父はきっと両親や祖父のぶんまで長生きしたかったに違いありません。ですから私の記事にある、「見苦しい生への執着を持って、、、」という表現は残された家族にとっては釈然としないというご意見を頂きました。私は即刻謝った上で、文章を訂正しました。さびーぬさんと同じように感じられた方々へのこの場でお詫び申し上げます。

もう一つのコメントは、らいおんはあとさんから頂きました。コメントは、さびーぬさんのコメントへのご感想でした。私の昨日の記事に「ある意味の納得をしました。しかし執着を持たないと言ったら嘘になります。らいおんはあとさんには尊敬していた伯父さんは居ました。素晴らしい生き方をして世界各国を飛び歩いていました。そして30年の病魔との戦いの後で、親族を一人一人枕元に呼んで、はっきりした声で、「90歳までは生きたかった」とおっしゃったそうです。

あんなに素晴らしい生涯を送った伯父にもしたいと事がまだまだあったに違いありません。そんな事を暗示させる文章でした。

病気になった老人の闘病生活を家族は助けます。愛している家族は悲しみます。家族の立場からは病人が徹底的に治療を受けることを祈っています。美しい心から生まれた2つのコメントへ感謝いたします。

さて、ガンの治療を止めようと考えているyuyuさんからはその深い理由をコメントとして頂きましたので以下にご紹介いたします。

=======ガンの治療を受けないyuyuさんの深い理由==========

今回の身勝手な私の日記をご紹介頂いて恐縮致しております。今朝、紹介者の診療所の先生とその後を話して参りました。彼は内科の胃腸科の専門ですから、側面からのアドバイスをしてくれました。自分の父親だったらこう選ぶと親身になって説明です。有難いことです。怪しい以上は、癌であればその種類を知り、其れにあった治療を選ぶと言います。麻酔をかけて、沢山の針を挿して行うため、出血し、その対応に2日の入院は賢明であると。その後は、ホルモン療法が良いとのことでした。

私と家内は、共に、癌に罹った場合、抗癌剤を使わない。手術をしないと約束しておりました。

家内の母親は50代で癌に苦しみました。私は祖母が癌でしたが、同じ50代の若さでした。兄弟に相談して、手術をしないことにしたと聞いていますが、真実は金銭的理由だったと思うのです。当時は保険もなく、兄は大学、下に私、弟、妹がいました。無理もないことでした。兄と重なると学費も倍になると思い、私は受験をしないで何年間か浪人をしました。祖母自身が手術を拒否したのは経費を心配したためだったと思います。

私は手術を恐れるのでもありません。私が癌の手術を受けない理由は、祖母を偲び絶対しないと決心からなのです。その決心をしたのは祖母を背負った時の軽さに驚いた記憶を忘れられないからです。随分昔になりますが、ある時、大学一年の夏休みに帰省しました。祖母が退院すると聞いてです。タクシーから祖母を背負ったのですが、女丈夫の彼女の軽さに哭きました。私の入学を祝う言葉は「すまない。私が病気してお前に苦労かけた」でした。治ること無い祖母に「早く良くなって、早稲田を案内するね」と云うのが精一杯でした。

私は還暦を過ぎてからは儲け物の人生と思う様になって、命を惜しむ心がなくなったのでした。それ以後の活動が華やかになりました。人のために働くことに集中しました。其れが、健康の源にもなりました。海外との文化交流、国内の芸術活動も自分のためではなく人のためでした。長々となりましたが、癌と私の関わりはそのような過去があるからなのです。(終り)

=======癌と私の関わりはそのような過去があるからなのです。=====

ガンの治療を受ける人、途中で止める人、始めから受けない人。それぞれ深い、深い個人的な理由があるのです。何か粛然とするyuyuさんのコメントです。

それだからこそ一層、皆様のご健康と平和を神に祈りたいと思います。藤山杜人