後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年は夏が暑過ぎて武川米は不作でした!

2010年09月28日 | 写真

昨日から山梨の甲府に一泊する小さな旅に行きました。

北杜市の稲田は酷暑のせいで稲の実りが悪くて農家の人々が困っていました。稲刈りの済んだ田とこれからの田が混じり合い山里の秋の風景が広がっていました。

そんな風景写真をお楽しみ下さい。天気が悪くて良い写真ではありませんが。

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追憶を誘うコスモスの花

2010年09月28日 | 写真

コスモスの花を見ると何故か昔の事があれやこれやと思い出させてくれます。私はコスモスの花を「追憶の花」と心の中で呼んでいます。

去年の9月19日に、車で40分程の立川基地跡に出来た昭和記念公園へ行きました。家内と自転車を借りて3時間ほどサイクリングしました。コスモス祭りで、丁度満開でした。家内が撮った写真なので上手ではありませんが、お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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低質な教育が日本の弱体化の原因になっている・・・尖閣列島問題で浮き彫りになった日本の弱さ

2010年09月28日 | インポート

9月24日の記事に、世界を支配する帝国としてのアメリカを内側から支えるもの という題目の文章を掲載しました。趣旨はアメリカの強烈な大学教育が世界帝国としてのアメリカを内側から支えているという考えを書いたものです。

それを受けてイギリスに永く在住しているzonさんから英国の大学もアメリカ同様ですというコメントを頂きました。それを下にご紹介致します。

その前に、何故日本は尖閣列島問題で右往左往するかを考えて見ました。その原因は常日頃国際関係を戦略的に考える能力が日本人には無いからだと思います。

相手の国の政策を長期的に観察して将来起きうる現象を予測しようとする態度が皆無なのです。船長を逮捕すれば当然この様な反応をすると予測出来た人が居なかったのです。それは日本人の外交能力の欠如です。日本の弱さをさらけ出してしまったのです。その原因は日本人一人一人が大学で戦略的に考える訓練を受けていないからです。大学教育を国際的に比較すると極端に低いからです。

それを裏ずけるのがzonさんのコメントの内容と感じています。以下にそのコメントを掲載致します。

======zonさんのコメント==============

私、小学校から大学まで、ずーっと日本の学校に行きましたが、日本の所謂「教育制度」には、不満を持ち続けていました。一度も学校が面白いと思ったことはありません。

目下英国に住んでいますが、もし、英国かアメリカで学校へ行ったのならば、私の人生、また物の見方は大きく変っていたものと思います。このことに関しまして、あるSNSに日記として書きました。それを僭越ながら、全て掲載セさせて頂きます。要旨は、貴殿のお書きになったものとほぼ同じです。

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近代化の先輩英国に永く住んでいるからといって、この国の制度の方がすべてよいという気は、さらにない。日本にもたくさんよいところがあって、時々なぜ英国くんだりにまで来て住んでいるのかと思うほどである。 さて、その日本にあらまほしき所。

入学試験制度の全廃である。ことに大学のそれ。

ドイツやフランス、アメリカの制度も同様だと思うが、英国では、「入試」というものはない。それでは、どうして入学者を決めるのかというと、その前段階の学校での試験がすべてで、それは学校とは無関係の団体が施行する全国共通試験。その試験結果と、その学校からの内申書、及び面接で入学者を決める。また、そのとき、日本の国立大学に入るときのように、全教科をほぼ一律に履修しなければならないなどという理不尽なことはない。

もう永く日本を離れているので、日本の現状を知らないとのお叱りを受けるかもしれないが、そのときはお許し願いたい。しかし、私が日本にいた頃は、「(大学)入試」という一回きりの試験のもつ比重が余りにも大きすぎると、いつも思っていた。

一本勝負に弱い生徒もあるであろうし、そこで偶々実力が十分に出せないということも勿論あるであろう。そして、その一回きりの試験が、大げさに言えば、生徒の将来の指針にまで影響するというのであるから。これは、日本の学校が、入れば、まず余程のことがない限り卒業できるという奇妙な事実によるところが大きい。

イギリスで、入試をなくせば、当然それに代わる学力査定手段が要るが、それがイギリスの外郭団体の施行する全国共通試験という訳である。ただ、ここでの問題点は、全国規模ということになると、生徒の学力に相当の「ばらつき」があるので、試験問題の難易度にかなりの柔軟性をもたさなばならぬことであろう。しかしこれも、生徒の受ける試験を同一学科内でも数種類用意することによって解決される。そして、生徒が選択する試験科目にもっと幅をもたせること。音楽、体育、美術、ITといった様なものにも、従来の科目と同じ権利を与えること。

この様に中等教育(日本の中学と高校)の学力査定(試験)にはるかに大きな重要性を持たせることによって何が起こるかというと、中等教育がもっと充実したものになるであろうこと(私が高校生の時には、大学入試のことばかりが頭にあって、高校生活を楽しんだとは、とてもいえたものではなかった)。また、浪人生、したがって予備校というものは当然なくなるであろう。ただ、塾は存続するかも知れない。

そして、そんなに「苦労して」入った日本の大学。

これは、もう恥ずかしくて、口にするのも憚られる程である。責めは、当然勉強をしなかった私にあるが、しかし、「それでも」卒業させてくれる日本の大学制度というものがおかしいと思うのは私だけであろうか。

「単位」とかいって、とにかく何かを提出すれば、通してもらえる。いかにも日本的に「表面的形式」が整えばそれでいいという、、。

余りにも自分が何も知らないということが如何にも恥ずかしく、英国では、「大学を出た」などとは、とてもとても言えたものではない。他の日本人にも決して言わない。

ところで、比較的最近(2004年)、当地の大学を「出た」。これは胸を張って言える。

ロンドン東部にある、大学のランク付けでも殆ど最下位に属するくらいの小さな大学、しかも、私が学んだのは「看護学」という、一般には、難しいとは見做されていない学科。

然し、それでもそれでもそこを無事に卒業するのは、日本の大学を出るより遥かに遥かに難しかった。そして、学生生活は余りにも忙しかった。一体当地の大学とは、「プロフェッショナル」を養成するところという概念が確立しているようで、学生に課される課題の焦点がすべてそこに当てられている。「形式が整えばいい」などという様なものではない。

試験に落ちたことも何度か。然し無事すべての「単位(Unit)」が取れて、卒業できたときは、それはそれは嬉しく、角帽にガウンを羽織り、5千円の出席料もものともせず、胸を張って卒業式に出た。そして、その後すぐに職にありつき、今もそこで働いている。

勿論、日本の大学にも、きわめて優秀な学生が沢山おられることは知っている。然し、それと同じく、私の様に、何も学ばず「卒業」された学生が多いということも知っている。ただ、私の様なのが、「大学卒」と呼ばれるのがおかしいと思うだけのことである。投稿日時: 2010/09/26 01:05=======終り========

さて皆様のご意見はいかがでしょうか?コメントを頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

                         藤山杜人