後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

死後、有名になった田中一村画泊の絵画世界

2010年09月27日 | インポート

田中一村の絵を前にして私は言葉が出ません。ご覧下さい。出典は、http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/tanaka/frm.htm です。このHPを書いている方の文章もぜひお読みください。そしてこの方のHPの全て:http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/index.htm の数々の随筆も是非お読みください。

====註:田中一村画伯について===========

1908年ー1977年、69歳で没。以下の出典はWikipedeaより。

1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。

没後に南日本新聞NHKの「日曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、数年前から全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村奈良県立万葉文化館[1](館長中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。

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尖閣列島問題は対華21ケ条要求に対する中国の復讐か?

2010年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム

尖閣列島は地図で見ると台湾の付属列島のように見える。地質学的にもそう言えるといしたら台湾に所属するのが自然です。

それを日本の領土にしたのは1985年の日清戦争後に台湾を日本の植民地にした時、尖閣列島も日本の領土になります。第二次大戦で日本が負けたときに台湾も返却したのですから尖閣列島も日本のものでは無いのです。と書くといきり立つ日本人が居ると思いますが、上記は中国人が考えそうな事を書いてみたに過ぎません。争い事に勝つためには敵の考えを知るのが鉄則です。

ところが尖閣列島問題はもっともっと根が深い問題と理解したほうが日本の為になると信じています。

日清戦争の後も日本政府は理不尽な要求を中国へ対して繰り返し行ってきたのです。1919年の対華21ケ条要求もその一例です。第一次世界大戦で勝ち組になった日本がドイツの持っていた山東省の青島市の租界を取り、近辺の権益を取ったのです。それだけではありません。中国政府は日本人の政治、経済、軍事の顧問を置くこと。警察は日中共同とし、兵器は全て日本より輸入する事。日本人の学校、病院、寺院へ土地所有権を与えること。揚子江地域での日本の鉄道敷設権を認める、などなどの理不尽な要求をしたのです。

その結果、中国では現在でも有名な五四運動が1919年に勃発したのです。そして五四運動と対華21ケ条要求は中国の教科書に現在も乗っていて、中国共産党の歴史の最重要項目として教えているのです。

尖閣列島問題で中国政府が理不尽な要求をしているのはこの対華21ケ条要求の復讐なのです。そのように考えると簡単に理解できます。復讐をするのが人間の本性です。

日本は1919年以後もつぎつぎに中国へ対して理不尽な要求をし続けたのです。

イエス様が「復讐はするな!それは神が行うことである」と幾ら言っても人間は聞く耳を持っていません。

中国人の復讐心が起きないような長期的な、そして戦略的な外交政策を考え出さないかぎり同じことが繰り返し起きます。日本人の背負っている負の遺産を冷静に分析し、賢い外交政策の展開なしでは解決になりません。皆様はどのようにお考えでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

五四運動の資料は、http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30009280.htmlに御座います。

対華21ケ条要求の資料は、http://kids.gakken.co.jp/jiten/5/50021750.htmlに御座います。