後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私はニクソン元大統領をみた・・・そして中国人の人情の厚さ

2010年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

1990年頃、成田空港で到着便の出口で出て来る知人を待っていた。そこへアメリカの元大統領ニクソン氏がトボトボと独りで歩いて出て来た。言葉を交わしたわけではない。会ったというより見たというのが正確な言い方だ。護衛の者も新聞記者も居ない。死人のような青ざめた顔で、危なげに歩いている。あまりにも暗い雰囲気なので他の乗客は近づかない。ニクソンの前後には寒々とした空間だけが一緒に歩いている。

私は、「失脚しても貴方は良いこともいっぱいしましたよ」と考えて見つめていた。気配を感じたのか顔を回して私を不思議そうに見て通り過ぎていった。私の好意的な表情で少しだけ彼の顔が和らいだ。一瞬の出来事だが忘れられない一シーンであった。

周恩来とニクソンが米中国交回復の道を作ったのはベトナム戦争の終わりでした。

中国政府は恩義を忘れない。周恩来の死後も、ニクソン氏を中国へ賓客として毎年、招待し続けたそうです。そんな報道を見て、一層中国人が好きになりました。

ところで、私が中国人を好きになったキッカケは次の体験によるのです。

中国の首相、周恩来が死んだ後、数年間、中央政府は公式行事以外の一切の私的な追悼会や集会を禁止した。たまたま北京にいた私に、旧知の周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言います。1981年、はじめて中国へ集中講義に行った折のことです。

 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大学の地下室でした。明るい照明が付いた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られている。数人の出席者が追悼の詩のようなものを朗読している。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人なのです」と言い切りました。

外国人の私が政府側へ密告しないと何故信用できたのでしょうか。その体験以来、私は中国人を好きになりました。30年たった現在でも大好きです。

失脚した元大統領のニクソン氏の胸に、何時までも変わらない中国人の気持ちが力強く響き続けたに違いありません。

周恩来氏の死んだのは1976年、ニクソン氏が死んだのは1994年。
共産主義者の周恩来とクエーカー教徒のニクソンが、恩讐の彼方のあの世で、酒を飲みながらどんな話をしているのだろう。(終わり)


人生に飽きる・・・その時自分の旅行記を読む

2010年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

70才になって仕事を一切止め、毎日旅行や趣味のヨットや山小屋通いを4年間続けて来ました。大変面白い経験を沢山しました。その上、3年前からブログを始めました。毎日、必ず2つ、3つの記事を書き、写真も多数掲載して来ました。いろいろな人々と交流し感動的な出会いを経験しました。

しかし最近体力も衰え、何故か人生に疲れを感じています。もう充分です。そろそろこの恥多い人生も終わりにならないかと思うことがあります。

まあ、分かり易く言えば、人生に飽きてきたのです。

そういう時はこのブログの左のサイドバーにある「旅行記」というカテゴリーをクリックします。過去の種々な旅の記録と考えたことが多数順序良く出てきます。

それを読んでいるとまだまだ旅をしたくなります。人生の旅路ももっともっと続ける意欲が湧いてきます。見知らぬ人々や地方へ強い好奇心が湧いて来ます。

今朝もそのような気分だったので、「旅行記」をクリックして、いろいろな旅日記を見ていました。元気が出て来ました。

その中から非常に深い印象に残った東北のお城への旅日記を先程、この記事の下に掲載しました。ご一読下さいますと好奇心が湧き、お元気になると思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


1334年築城の陰鬱な城の復元・・・姫路城とはこんなに違う!

2010年09月10日 | 旅行記

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城と言えば熊本城、姫路城、岡山城、大阪城、彦根城、岐阜城、犬山城、掛川城、松本城、会津城などを見たことがある。いずれも広い堀、見事な石垣、白壁の建物群、宙に聳える天守閣などが美しく調和していて文化の香りが高い。そんなイメージを持って見に行った南部師行(なんぶもろゆき)、1334年築造の根城には強い衝撃を受けてしまった。文化の香りでなく戦いの臭いが強烈に残っている。城の構造と武器製造工房が300年間の臨戦態勢を見事に再現さしている。(青森県八戸市立、根城公園内にある。)

白壁の建物など皆無で城壁は荒々しい木の柵である。太い木の柵が敵を威圧するように、陸奥の暗い空の下に蜿蜒と連なっている。

南部師行は現在の山梨県南部市身延町付近出身の武将である。1334年に陸奥の国代とし赴任し、現在の八戸市西郊の馬淵川を望む高台に根城を築いた。その後、南部師行は南朝側の北畠顕家の部下として足利尊氏を討つため京都・大阪方面へ2度も遠征した。しかし2度目には足利軍に負け、1338年泉州石津(現在の堺市)で死ぬ。一方、根城と八戸南部領(岩手北部、青森東部)は初代、師行の子孫がよく守った。

しかし江戸幕府確立後の1627年に八戸南部氏は遠野へ領地替えになり、盛岡南部氏の家臣になった。その間の293年、根城は岩手北部、青森東部、秋田の東部山岳地帯を擁する広い領地を治める武力政権として存続した。

地方地方の武力政権という考え方で日本の歴史をみれば、縄文時代から明治維新までは全てが同じように地方ごとの武力集団による領民の統治という図式になる。武力政権は殺伐とした雰囲気を何処かに必ず有している。そんな考え方の真実性をヒシヒシと感じさせるのが根城の再現建物群である。

大きな写真と下列の写真数枚で暗い空の下、ながながと続く砦の木柵を示す。下列左端は現在の山梨県から行って根城を作った南部師行の騎馬像。終わりの方の4枚の写真は主殿の外観と質素な木床の部屋の様子を示す。等身大の人形のある席はお正月の祝いの席であるが、臨戦態勢の鎧兜の年男が酒を注いで回っている。お膳の食べ物の質素さにご注目頂きたい。

続編では城内にある武器製造工房や竪穴式貯蔵庫群の写真を示す。

根城の再現施設を見て回ると、緊張した300年の雰囲気が切々と伝わってきて、背筋が寒くなる。武力政権の宿命である。そんなことを実感させるように再現した八戸市の担当者の慧眼・見識に敬意を感じざるを得ない。

以下は、臨戦態勢300年の南部の城砦「根城」の続きへ続きます。(終り)