1990年頃、成田空港で到着便の出口で出て来る知人を待っていた。そこへアメリカの元大統領ニクソン氏がトボトボと独りで歩いて出て来た。言葉を交わしたわけではない。会ったというより見たというのが正確な言い方だ。護衛の者も新聞記者も居ない。死人のような青ざめた顔で、危なげに歩いている。あまりにも暗い雰囲気なので他の乗客は近づかない。ニクソンの前後には寒々とした空間だけが一緒に歩いている。
私は、「失脚しても貴方は良いこともいっぱいしましたよ」と考えて見つめていた。気配を感じたのか顔を回して私を不思議そうに見て通り過ぎていった。私の好意的な表情で少しだけ彼の顔が和らいだ。一瞬の出来事だが忘れられない一シーンであった。
周恩来とニクソンが米中国交回復の道を作ったのはベトナム戦争の終わりでした。
中国政府は恩義を忘れない。周恩来の死後も、ニクソン氏を中国へ賓客として毎年、招待し続けたそうです。そんな報道を見て、一層中国人が好きになりました。
ところで、私が中国人を好きになったキッカケは次の体験によるのです。
中国の首相、周恩来が死んだ後、数年間、中央政府は公式行事以外の一切の私的な追悼会や集会を禁止した。たまたま北京にいた私に、旧知の周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言います。1981年、はじめて中国へ集中講義に行った折のことです。
暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大学の地下室でした。明るい照明が付いた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られている。数人の出席者が追悼の詩のようなものを朗読している。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないと何故信用できたのでしょうか。その体験以来、私は中国人を好きになりました。30年たった現在でも大好きです。
失脚した元大統領のニクソン氏の胸に、何時までも変わらない中国人の気持ちが力強く響き続けたに違いありません。
周恩来氏の死んだのは1976年、ニクソン氏が死んだのは1994年。
共産主義者の周恩来とクエーカー教徒のニクソンが、恩讐の彼方のあの世で、酒を飲みながらどんな話をしているのだろう。(終わり)