富士山の五合目に上がる有料道路のスバルラインを河口湖から登って行くと、一合目のすぐ上に「樹海展望台駐車場」がります。車を停めて、樹海の広がりを見下ろし、それから後を見ると道路の向こう側に「富士聖母像」という大きな看板があります。大樹の繁る森の中を、150m程登ると巨大なマリア様の像が静かに建っています。幼子イエスを抱いています。東京のあるカトリックの組織が富士吉田市の協力を得て、世界の平和を祈るために作ったのです。背景の白い壁の下の方には世界中のカトリック組織から送られて来た銘石が埋め込まれています。世界平和を一緒に祈るために送って来たのです。富士山のスバルラインへ行ったときは是非お立ち寄り下さい。森の中の道も素晴らしいところです。
今日の新聞によると、民主党代表選挙はポイント制で、1224ポイントの中で一番多くの点数を取った人が民主党の次期代表になるという。この1224ポントの内訳は412人の国会議員一人あたり2ポイントで合計824ポントと民主党の地方議員の持ち分100ポイントと党員・サポーターの持ち分300ポイントになります。したがって、その三者を加えて、総合計が1224ポントとなります。
選挙結果の客観的予測は国会議員以外のポイントの持ち分の選挙結果の予測をしてみると意外に分かりやすいのです。仮に400点を2分して300点を菅さん、100点を小沢さんが取ったと仮定してみます。さらに、菅さんが国会議員の824点のうち324点(162人)取り、小沢さんが500点(250人)取ったとします。
すると菅さんの総合計は、この324点に地方議員やサポーターからの300点を加えると624点になります。
一方小沢さんの総合計は国会議員による500点と地方からの100点を加えると600点になり、菅さんに負けてしまいます。
従って、選挙の勝敗のめどは、小沢さんが国会議員を250人以上獲得するか?あるいは菅さんが162人以上獲得するかによって決まってしまいます。
小沢グループが150人、鳩山グループが60人ですから合計210人で、ポイント数は420点になります。500点以上するにはあと40人以上の国会議員を獲得する必要があります。
一方、菅さんの陣営は、菅グループ60人、前原グループ60人、野田グループ40人で合計160人で320ポイントになります。菅さんの陣営はもう2人の国会議員を獲得すれば324点になり、勝てるのです。
両陣営のどちらを支持するか明確になっていないのは、旧民社党グループ30人、旧社会党グループ30人、羽田グループ20人という報道があります。
単純に計算すると菅さんが楽勝する様子です。しかし修羅場の選挙戦に強い小沢さんが多量の国会議員票を集め勝つ可能性が大きいと思います。
この権力闘争をこのブログで取り上げた理由は以下のように、2つあります。
(1)従来の自由民主党時代の「派閥」と民主党の「グループ」の性質がどのように違うかが明らかになる。すなわち派閥には投票にあたって個人の自由が無かったがグループにはそれがあると言います。本当にそうか?今回の投票でこの問題が比較的簡単に判明します。例えば小沢グループのメンバーが菅さんへ投票する自由があるか否かが判明します。個人の意見と集団の意見の相対的な重要性が分かり、大変興味深い現象になりそうです。
(2)小沢氏が総理大臣になった場合と菅氏が総理大臣になった場合の諸外国からの評価が興味深いと思います。どちらが外国からの評価が高いかは分かりません。
皆様は国際的な外交手腕で比較すると菅氏と小沢氏のどちらが優れているとお考えでしょうか?
さて、上の選挙結果の予測について皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。
失礼しました。藤山杜人
江戸時代中期に木喰 と、その弟子の木食 白道 が居ました。遊行僧です。彼らは現在の我々にとってどんな存在なのでしょう?
Wikipedeaの彼らの説明文を以下に転写します。
わたくしはカトリックの修道士や修道女の清貧、貞潔、従順の誓いと比べると同じような聖人に近い存在だったと理解しています。宗教の上での聖なる人は皆同じような生き方をしていることに驚きます。
皆さまのご感想を頂ければ嬉しく思います。
今日も皆さまのご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人
木喰(もくじき 1718年(享保3年)- 1810年7月6日(文化7年6月5日)は、江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家。日本全国におびただしい数の遺品が残る、「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者である。生涯に三度改名し、木喰五行上人、木喰明満上人などとも称する。特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧(ゆぎょうそう)などと称したが、木喰はこうした遊行僧の典型であり、日本全国を旅し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。
木喰の作風は伝統的な仏像彫刻とは全く異なった様式を示し、ノミの跡も生々しい型破りなものであるが、無駄を省いた簡潔な造形の中に深い宗教的感情が表現されており、大胆なデフォルメには現代彫刻を思わせる斬新さがある。日本各地に仏像を残した遊行僧としては、木喰より1世紀ほど前の時代に活動した円空がよく知られるが、円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのも特色である。
木喰の再発見 [編集]
木喰の存在は、没後1世紀以上の間、大正期に入るまで完全に忘れ去られていた。木喰を再発見したのは、美術史家で民藝運動の推進者であった柳宗悦(やなぎむねよし、1889年(明治22年)~1961年(昭和36年))であった。柳は1924年(大正13年)1月に山梨県池田村(現在の甲府市郊外)村長で郷土史研究者の小宮山清三[3]の自宅を訪れ、小宮山家所蔵の李朝陶磁器の調査をしていた際、偶然に同家所蔵の地蔵菩薩像、無量寿菩薩像、弘法大師像の3体の木喰仏を見出し、木喰仏の芸術性の高さに打たれたという。当時は木喰の存在や木喰仏の先行研究や評価はなされておらず、柳は小宮山から地蔵菩薩像を贈られると、半年の間に懸案であった朝鮮民族美術館を京城(ソウル)で開館させた。小宮山らの協力を得て木喰仏の調査研究のため、木喰の故郷である丸畑をはじめ日本各地を調査することになる。同年だけで300体以上の木喰仏を発見し、木喰仏の墨書銘や、納経帳や宿帳など自筆文書の発見により断片的な木喰の足跡が解明され、小宮山や山梨日日新聞社長の野口二郎らと雑誌『木喰上人之研究』を発刊する。柳は1926年まで木喰研究を行い、その後は民藝運動に専念している。『全集第7巻 木喰五行上人』(筑摩書房)に集成されている。
木食 白道(もくじき びゃくどう、1755年(宝暦5年) - 1826年1月31日(文政8年12月24日))は、江戸時代の仏教行者・造仏聖(仏教彫刻家)。独特の微笑が表現された「微笑仏」を全国各地に残した木喰[1]の弟子で、木喰ともに各地を旅して造仏活動を行う。白道仏は木喰仏と同様の「微笑仏」で、各地に160体以上が発見されている。白道仏は行道と北海道に渡っていた頃の子安観音菩薩像や地蔵菩薩像はそれまで行道の作であると考えられていたが、近年は山梨県立博物館による赤外線調査で背面から墨書銘が確認され、白道の作であることが明らかになった。