山梨県の東京よりにある大月市はJR中央線で、東京駅から時々直通電車が出ています。それに乗ると1時間50分で着く山間の町です。
山々に囲まれ、桂川の深い谷川が流れています。
昔から甲州街道の重要な宿として栄え、武田信玄の時代には、その24将の一人の小山田氏が大月市北に聳える岩殿山に城を築き、八王子城の北条一族と対峙していました。
下に2010年6月26日に影して来た大月市の風景写真をお送りします。
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この山間の小さな町を訪問したとき市役所の産業観光課を訪ねました。
歴史的逸話や、見て感動する神社・仏閣が無いかと調べるためでした。
そうしたら宝積寺や大月市郷土資料館を見て下さいと言います。
その資料館で無料配布している「大月人物伝」という題目の本がありました。大月出身で、人々の心に残る人生を歩いた65人の生き方を記録、編集した本です。
布装丁の立派な335ページの本で、平成20年10月に出版されています。
大月出身で有名な山本周五郎や白籏史朗もあり、そして江戸時代の修業僧の木食白道のことも書いてある。
その中から一人の女性の一生を紹介したと思います。
小さな町に埋もれている戦争の小さな悲劇です。
その人は、第二次大戦中に中国大陸に渡り、抗日戦争へ協力し、1947年に35歳の若さで満州の大地へ帰ったのです。
彼女は長谷川テルといい、現在の大月市猿橋町で、1912年に生まれました。
父が土木技師で、東京電力の大月にある駒橋水力発電所へ赴任して来たのです。数年後、父が東京へ転勤になり、一家は大月から出ました。
テルは東京府立第三高女(現駒場高校)を首席で卒業し、奈良女子高等師範学校へ入学した才媛でした。そこで反戦思想に染まるのです。
昭和7年、満州事変勃発で反戦学生の取り締まりが厳しくなり、奈良の女高師を退学処分になります。
小林多喜二の蟹工船の抄訳本を作ったりしている間に、中国人の留学生の劉仁と恋愛関係になり結婚し、昭和12年、夫とともに上海に渡ります。その時、テルは25歳でした。
その後は武漢、重慶と転居しながら、放送で日本軍兵士へ反戦と平和を呼び掛けたのです。日本軍からは「嬌声売国奴」という汚名を受け、土木技師の父も解雇され、実家へは投石も続いたそうです。
1945年には日本が敗戦します。
1947年に旧満州の佳木斯(ジャムス)市で、夫婦ともに共産党の研究所の研究員に任命され、ようやく平和な家庭生活が始まりました。しかしすぐにテルは妊娠中絶手術の感染症で病死すしまいました。享年35歳でした。
夫も間もなく肺気腫になり、3ケ月後に病死する。享年37歳でったそうです。
2人ともに1949年の中国人民共和国の成立を見ないで死にました。
夫、劉仁とテルの墓は佳木斯(ジャムス)市郊外にあります。1983年に佳木斯(ジャムス)市人民政府が建てた墓でです。碑文には「国際主義戦士 緑川英子(テルの中国名)と劉仁同志の墓」と刻み込まれているそうです。墓の周りは公園になっていて、「緑川公園」という名前がついていいます。
この悲劇は有名ではありません。学校の教科書にも出て来ません。
大月という小さな町の資料館にある「大月人物伝」という本の中に眠っている小さな悲しい歴史のエピソードです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
このイラストは、虹河琴女さんのGallery( http://www.ac.auone-net.jp/~kotome/ )からお借り致しました。お貸し下さった虹河さんへ感謝の意を表します。