後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第五章、終戦 兄たちシベリアから生還

2013年07月24日 | インポート

======第五章、終戦 兄たちシベリアから生還============

日本は敗戦色が深まり、誰の顔にも戦争の疲れがにじみでていた。負けるなどとは口が裂けても言えない状況だった。ラジオでは大本営発表で戦況を伝えてはいるが、日本が奮戦して敵軍を蹴散らしたとか、まさか南方の島々で玉砕をしているなんて知る由もない。でもあっちの家こっちの家で、息子さんが戦死したという知らせがあり、間山家でももしかしたら・・・
という不安はつきまとっていた。

そのころは物はかなり不自由をしていて、米や砂糖・煙草などは勿論、たいていの物が不足し、配給制度を取っていたので、当然、こんにゃくの粉もなく、製造もできない日がつづいていた。たまに粉が入るとこんにゃくを煮て味付けをし、駅前で母と売るとあっという間に売り切れたそうだ。みんなひもじい思いをしていたのだった。

直接群馬に行って粉を買いに行ったこともあったそうだ。
当然浅市は行ったついでに、現在の調布市の藍川先生のところに寄るのであった。
東京もところどころが空襲にあったりして、ガレキが積んでるところもあったという。

青森にも空襲の噂があったが、女たちは消火訓練や竹槍での訓練、子供たちも防空壕に逃げ込む訓練などしていた時代である。

浅市が上京してるうちに、青森の空襲が始まった昭和20年7月の末のことであった。
現在の調布市にいた浅市は遅れてきた同志から、青森が空襲にあって大きな被害が出ているぞと聞いたとき、あぁ我が家ももう焼けてしまったか・・・と絶句したが、何故かすぐには帰らなかった。
そう、その訳をついに聞かないでしまったことを後悔している。
3日くらいたってから青森へ帰郷したさいに、途中何度も線路が空襲され、立ち往生しながら、満員の人で溢返った汽車で、人々はみな無口でこらえて乗っていたのを忘れられないと父は話していた。

青森駅へ到着して、ガランと焼け野原になった街を見て思わず涙が溢れた。
母は弟たちは大丈夫だろうか?母校である長島小の北校舎が焼け落ちずにいるのが見えた。まだあちこちからあがるくすぶった煙が視界を遮っていた。

青森市の役所ちかくには焼夷弾による遺体が並べられていると聞くが、まず最初に家がどうなってるか急いだ。
するとなんてことでしょう・・・!
ほとんどの家が焼けてるのに、間山家のこんにゃく屋は焼けずに残っていたのである。
近所の人たちが協力して、消火活動をして助けてくれたのだった。
「おぅおぅ帰ってきたが、浅市・・・」
母親のつえは黒く薄汚れた顔をくしゃくしゃにして笑った。

8月15日、玉音放送があり途切れがちに聞こえるその陛下のお声はおごそかであった。
何となく日本が負けたんだという想いは伝わって、ラジオの前で小さく肩をゆする者、浅市のようにしゃくりあげて泣く者など様々であった。

戦争が終わっていくら待っても兄たちは帰ってこず、生きてるのか死んでるのかさえ分からない。
もうこんにゃく屋の跡を取るしかないと、諦めて母とおでんを作っては駅前で精力的に売った。
作れば作っただけ売れる。毎日忙しくて八重に会いにいく暇もない。書道の方もしばらくは書く暇さえないほどだった。

昭和22年か23年、長男の沢一が帰ってきた。
「おぉ!家が残ってるじゃないか、浅市おまえよく頑張ったな」
その晩に、「お前が家を守ってくれて兄さんは本当に感謝している。この商売がもう少し軌道に乗ったらお前に家を建ててあげるから」
兄さんのその言葉は本当にありがたかった。
一方、二男の沢義が生きていてそのうち帰るだろうと沢一は言ったが、半年が経った。
近所の人が「あんたのとこの澤義さん、数日後に横浜に着くよ」
浅市はすぐに支度をして東京へ迎えに行った。

大きな船が入ってたくさんの人々が旗を振って迎える中、船から次々と帰還兵が降りてくる。
みんな一様に笑顔になってそれぞれの家族の元へ散った。
一回り体の大きな澤義兄さんは176cm、体重90キロはあっただろうか。
降りてくる兄さんに「お~い!」と叫んだ。

兄さんに駆け寄ったら、「どけろ!邪魔だ!」兄さんは人が変わったように鋭い目つきで、仲間とスクラムを組んだと思ったら、労働歌を歌いだし、どこかへ行ってしまった。

なんとシベリアへ抑留されて共産思想を洗脳されて心身共にアカになって戻ってきたのだった。 浅市は悲しくて涙をこらえて青森へ一人で帰るしかなかった。(第六章へ続く)


横浜の大桟橋の風景をお楽しみ下さい

2013年07月24日 | 写真

昨日、横浜の大桟橋を散歩しました。その風景写真をお送りいたしますので、壮大なご気分になってお楽しみください。

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桟橋に巨大な豪華客船が停泊していました。桟橋の屋上に登って見たらサン・プリンセス(77000トン)という船でした。アメリカ人が続々と乗り込んでいます。午後にでも出港の様子です。

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大桟橋の反対側を見ましたら飛鳥II(50145トン)が停泊していました。

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屋上からベイブリッジの方角を見ましたら横浜港観光船のマリーン・ルージュが見えます。

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大桟橋の足元を見下ろしたら小型観光船のYUME HAMA がゆうゆうと巡航していました。

横浜港の風景は船旅のロマンをかき立てるので好きな所です。

昨日は横浜に早く行って横浜美術館での「プーシキン美術館展覧会」を見る予定でしたが、時間に余裕が無くなったので大桟橋を30分ほど散歩しました。

港町の風景写真をお送りしました。(終わり)


人間は老人になると善い顔、明るい顔、平安な顔になる・・・20回の連続観察の結果より

2013年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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昨日、大学時代の同級会が横浜でありました。この会は70歳になった頃から続いているものです。

そこで、今日は人間は老人になると次第に、「善い顔つき」になるという私自身の7年間の観察結果を書きたいと思います。

 大学の同級生の十数名を4ケ月ごとの20回の昼食会で7年間、一人一人を観察して、それぞれの人相がどのように変わって来たか考えてみたのです。その昼食会の様子を下の写真で示します。

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それでは順序だててお話し致します

我々は昭和33年にある大学の金属工学科を卒業しました。

同級生は32名でしたがすでに亡くなった者が6名います。そして体の調子が悪くて長距離の旅行が出来ない人が9名ほどいます。残りは17名ほどです。2年ごとにこの17名の大部分が集まり、泊りがけの同級会をします。

それに加えて上と下の写真に示したような横浜の海に近いところで、4ケ月ごとに十数人が集まり昼食を一緒にしながら生ビールを飲む会を開いています。

私はこの同級生との会合には必ず出席してきました。同級生は運命で決まった絆だと信じ、以前は何も考えないで出席してきたのです。

しかし皆が70歳を越えた頃から、皆の顔を見るのが無性に楽しくなり積極的に出席するようになったのです。

退職して10年くらい経過すると人間はこの世のしがらみから離れ、大らかになるのです。他人を押しのけて出世しようなどという俗念がなくなるのです。

ハンサムだった同級生も、そうでなかった同級生もみんな平等に皺いっぱいの老人の顔になるのです。

その上、この世でし残したことは無いような気分になります。

旅立つ心の準備が自然に出来ます。当然のように善い顔になります。

余命がそんなに長くないことを知っています。悲しい筈ですが、その事が今日も元気に横浜で会えたことを楽しくさせるのです。今日も生きていることに心が弾みます。当然、明るい顔になります。老いの華やぎという表情になります。

老いの華やぎも悲しみもすべては、はかないものと感じる瞬間もあります。それは本当に平安な顔を作ります。

横浜で4ケ月ごとに同じ友人に会い、その顔の経時変化を注意深く観察すると間違いなく肉体の老化が進んでいることが分かります。しかしそれと反比例するように表情がますます善くなり、明るくなり、平安になります。

そのような善い顔の人々と談論風発するのが楽しくて毎回、遠路の横浜の海岸近くの昼食会へ行くのです。人間は年齢とともに考え方が変わるという自然現象に驚いている最近の心境です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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