======第五章、終戦 兄たちシベリアから生還============
日本は敗戦色が深まり、誰の顔にも戦争の疲れがにじみでていた。負けるなどとは口が裂けても言えない状況だった。ラジオでは大本営発表で戦況を伝えてはいるが、日本が奮戦して敵軍を蹴散らしたとか、まさか南方の島々で玉砕をしているなんて知る由もない。でもあっちの家こっちの家で、息子さんが戦死したという知らせがあり、間山家でももしかしたら・・・
という不安はつきまとっていた。
そのころは物はかなり不自由をしていて、米や砂糖・煙草などは勿論、たいていの物が不足し、配給制度を取っていたので、当然、こんにゃくの粉もなく、製造もできない日がつづいていた。たまに粉が入るとこんにゃくを煮て味付けをし、駅前で母と売るとあっという間に売り切れたそうだ。みんなひもじい思いをしていたのだった。
直接群馬に行って粉を買いに行ったこともあったそうだ。
当然浅市は行ったついでに、現在の調布市の藍川先生のところに寄るのであった。
東京もところどころが空襲にあったりして、ガレキが積んでるところもあったという。
青森にも空襲の噂があったが、女たちは消火訓練や竹槍での訓練、子供たちも防空壕に逃げ込む訓練などしていた時代である。
浅市が上京してるうちに、青森の空襲が始まった昭和20年7月の末のことであった。
現在の調布市にいた浅市は遅れてきた同志から、青森が空襲にあって大きな被害が出ているぞと聞いたとき、あぁ我が家ももう焼けてしまったか・・・と絶句したが、何故かすぐには帰らなかった。
そう、その訳をついに聞かないでしまったことを後悔している。
3日くらいたってから青森へ帰郷したさいに、途中何度も線路が空襲され、立ち往生しながら、満員の人で溢返った汽車で、人々はみな無口でこらえて乗っていたのを忘れられないと父は話していた。
青森駅へ到着して、ガランと焼け野原になった街を見て思わず涙が溢れた。
母は弟たちは大丈夫だろうか?母校である長島小の北校舎が焼け落ちずにいるのが見えた。まだあちこちからあがるくすぶった煙が視界を遮っていた。
青森市の役所ちかくには焼夷弾による遺体が並べられていると聞くが、まず最初に家がどうなってるか急いだ。
するとなんてことでしょう・・・!
ほとんどの家が焼けてるのに、間山家のこんにゃく屋は焼けずに残っていたのである。
近所の人たちが協力して、消火活動をして助けてくれたのだった。
「おぅおぅ帰ってきたが、浅市・・・」
母親のつえは黒く薄汚れた顔をくしゃくしゃにして笑った。
8月15日、玉音放送があり途切れがちに聞こえるその陛下のお声はおごそかであった。
何となく日本が負けたんだという想いは伝わって、ラジオの前で小さく肩をゆする者、浅市のようにしゃくりあげて泣く者など様々であった。
戦争が終わっていくら待っても兄たちは帰ってこず、生きてるのか死んでるのかさえ分からない。
もうこんにゃく屋の跡を取るしかないと、諦めて母とおでんを作っては駅前で精力的に売った。
作れば作っただけ売れる。毎日忙しくて八重に会いにいく暇もない。書道の方もしばらくは書く暇さえないほどだった。
昭和22年か23年、長男の沢一が帰ってきた。
「おぉ!家が残ってるじゃないか、浅市おまえよく頑張ったな」
その晩に、「お前が家を守ってくれて兄さんは本当に感謝している。この商売がもう少し軌道に乗ったらお前に家を建ててあげるから」
兄さんのその言葉は本当にありがたかった。
一方、二男の沢義が生きていてそのうち帰るだろうと沢一は言ったが、半年が経った。
近所の人が「あんたのとこの澤義さん、数日後に横浜に着くよ」
浅市はすぐに支度をして東京へ迎えに行った。
大きな船が入ってたくさんの人々が旗を振って迎える中、船から次々と帰還兵が降りてくる。
みんな一様に笑顔になってそれぞれの家族の元へ散った。
一回り体の大きな澤義兄さんは176cm、体重90キロはあっただろうか。
降りてくる兄さんに「お~い!」と叫んだ。
兄さんに駆け寄ったら、「どけろ!邪魔だ!」兄さんは人が変わったように鋭い目つきで、仲間とスクラムを組んだと思ったら、労働歌を歌いだし、どこかへ行ってしまった。
なんとシベリアへ抑留されて共産思想を洗脳されて心身共にアカになって戻ってきたのだった。 浅市は悲しくて涙をこらえて青森へ一人で帰るしかなかった。(第六章へ続く)