後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

心和む花屋さんの店先の写真をお送り致します。

2013年07月18日 | 写真

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花屋さんは私の大好きな店です。特に大きな花屋さんは花々の植物園のようです。誰もいないので散歩するようにゆっくり歩き回りました。

家内へのお土産に真紅と純白の薔薇の花を買いました。その店先で先日撮った写真をお送り致します。J-マート三鷹店で撮りました。


水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第三章、兄の出征といろいろな出逢い

2013年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

==水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第三章、兄の出征といろいろな出逢い==

昭和16年、日本が遂にアメリカと開戦に至って、昭和18年の三月、父沢次郎が倒れて帰らぬ人となった。
62歳であった。その年の夏に長男と二男が相次いで召集令状がきた。
父が亡くなった今、兄が父親代わりであったが、もとより父親より怖い存在の沢一が浅市を呼んでこういった。
「浅市、俺と澤義が戦地へ行ったら、もう生きて帰れないかもしれない。お前がこの家の家長となって、母を助けてこんにゃく屋を守っていけよ」
浅市は歯を食いしばってうなずいた。
兄たちが出てからというもの、朝早くからこんにゃく作りが始まった。市場やお得意の商店へリヤカーに積んで母とふたりで毎日懸命に働いた。夏はおでんを作り駅前で売ったらかなり売れた。
また夏はところてんを新たに作り始めて、研究好きな浅市はすぐに作り方を覚えて新しい商売として定着させた。

また誘われていた別の書道の先生の塾へ遊びにも行った。
開口一番、「間山君!君のような人間があの先生のところにいるべきじゃない!、どうだい私の塾で勉強しないか?ここにはいろんな会派の書家がいるから、刺激になるぞ」
外崎枕流という先生の下には前衛を書くものや、翠軒流を書くもの、また上田桑鳩という中央の大御所の弟子という人物もおり、浅市は目を見張ってみんなの書く書や機関紙をいただいて、むさぼるように読んだ。

またそこで知り合った西村という先輩とは意気投合してしまい、家に呼んでは朝まで議論したりして飲めないビールをのんでは語りあった。
ある日、西村は「間山、お前に是非会わせたい先生がいる、東京へ一緒にいかないか?」

一生懸命働く息子からの願いを母は「行ってこい、大丈夫だからしっかり勉強してな」
そしてお土産の品のコメやこんにゃくなど沢山リュックへ入れて二人は上京した。
今と違って昔の列車は煙がすごく、上野につけば顔は真っ黒になってしまったという。

武蔵野のつつじヶ丘の『らんせん荘』という邸宅が先生のお住まいであった。
「田中なんという名?」と聞いても西村は「今にわかる」それしか言わないのだった。

中には甲斐甲斐しく男も女も動き回っていた。流し場の方の係へ青森からの品を渡した。
その部屋にはお酒の樽や魚や野菜がどっさりと積まれていた。

翌日ようやく大広間で100名以上はいただろうか、何だか書道関係の人間ではないようだ?
すると司会の人が「それでは立憲養正会総裁の田中澤二先生のお言葉を頂戴いたします」
なに?立憲?政党か?浅市は心配になった。
祭壇のようなところに三角の形をした日章旗が何本も立っていて、その後ろに「行け男児!国難に」とか、「第二肇国願業成就」とか不思議な書体で書かれていた。
田中先生が話されていたのは天皇のお人柄、そして大和朝廷の話、日蓮上人の慈悲の心、そして強い精神力と国難に打ち克っていくその御心、日本のあるべき姿は天皇の御心は佛さまの御心である。
ふだん母親が話していることと類似している内容にすっかり浅市は聞き惚れてしまい、展示してある書物を何冊も買ってしまった。

その夜の会食のとき、西村とともに総裁の田中澤二先生の前に進み出て挨拶をした。

 そのときに、総裁は、
「お前が間山か、うわさは聞いておったぞ、書を学んでるそうじゃな。おい!紙と筆持ってこい!」
弟子たちはすぐさま硯や筆を用意した。

田中先生は細い長峰の筆の先をもったかと思うと、サラサラと何やら歌を書いた
「余は書家の書は好かん、間山この書をよく見ておきなさい」
節をつけて朗詠を始めたのだった。聞いたこともないその節回しに田舎者の浅市はすっかり総裁先生に惚れ込んでしまったのだった。
感激家の浅市はただただ嬉しくって、泣きじゃくってその書をしっかり受け取った。

『鏡には映らぬ人の真心を さやかに見ゆる水茎の跡」
明治天皇の御歌と知り浅市は、その詩とその節を頭に刻みこんだ。
後に水茎書道会をつくる基となった歌だった。

「今度くるときは王羲之や欧陽詢など書いてきなさい」 「はい!」
喜び勇んで浅市は青森へ帰っていった。

なお、田中澤二先生の父は田中智学といって、国学者であり国柱会という宗教の創始者だった。
日蓮上人の教えをとき、国体学を説いた。(高山樗牛や宮沢賢治の師)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%99%BA%E5%AD%B8

(第四章へ続く)

下に田中智学の写真を示します

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下に戦災で燃えてしまった青森市の写真を示します

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そして下は間山家が檀家になっていたお寺の惨状です。

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下の写真の中央が昭和22年に代用教師になった20歳の時の浅市青年です。
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日本政府に対立するピースボートの成功の秘密

2013年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

この地球に平和を求める努力は崇高なことです。人々の尊敬と支援を受けます。しかしその平和運動にはどうしても日本政府やアメリカ政府が嫌がることもしなければなりません。それがピースボートの主張なのです。

たとえば原発再開推進をしている安倍総理や自民党に対抗して「脱原発世界会議」を開催しました。

日本やアメリカと敵対している北朝鮮を何回も訪問しました。

そして問題の多い国後島へも外務省の反対を無視して訪問しました。

海上自衛隊の海外派遣に反対していたにも関わらずピースボートが海上自衛隊の艦艇の護衛を要請しました。ソマリア沖の海賊が怖かったからです。

イスラエル軍のパレスチナ地区の攻撃を受けて被害を受けた人々を訪問し、支援しました。アメリカはイスラエルの後援者のです。ですから日本政府も苦々しく思っています。

アメリカ軍の旧悪を暴くようにベトナム戦争時の枯葉剤による被害者の救済事業をし、ピースボートで被害者を訪問しました。

このような活動は草の根平和運動と称するもので、日本の政権政党や中央官庁の役人が忌み嫌う活動です。

偉そうにしている政治家や官僚になんとなく反発を感じている一般大衆の不満の捌け口になっているのかも知れません。

しかしこのような反政府的な活動も自由に出来る日本という国の民主主義の成熟度に感動します。日本は本当に有難い国家です。

このピースボートが30年も成功裡に存続している一番重要な原因はその世界一周航海の申し込が毎回満員近くなり利潤を挙げて続けているからです。

それこそがNGOピースボートの活動資金になっているのでしょう。

乗客の70%くらいが引退した老夫婦だそうです。あとは20歳代の若者で、30代や40代の働き盛りの人はあまりいないそうです。(http://atsuko.boo.jp/?page_id=540

世界一周の料金は豪華客船よりは安いのですが、あまり変わりません。

しかしいろいろな服装の規則があり、堅苦しい正式なディナーがあったりする豪華客船は気が重いものです。ジーパンとシャツ姿で気楽に世界一周をしたい人も多いはずです。

そのような引退後の高齢者の人気を集めているのでしょう。

サービスに必要な人件費がかかりません。下の写真は昨日の見学会の受付風景です。受け付けているのは皆がボランティアの若者です。茶髪のいない真面目な若者です。

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下の写真は、受付を終えた老夫婦がボランティアの若者の親切な説明を聞いている光景です。

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自分たちの住んでいるこの世界を少しでも住みよい平和な地にしたいと願っている若者たちがこの下の写真の船の周りに集まっているのです。
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成熟した民主国家とは異なる意見の存在を認め、お互いに尊敬しあう社会から成り立っていると言われています。合法的な限り、あらゆる活動は自由なのです。

世の中にピースボートの活動内容や役割がよく分からず、感情的に悪評を言う人もいます。しかし決して悪い船ではないようです。

私自身はピースボートのような活動には参加しませんが、敬意を表します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料======================

以下の情報の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%88 です。

脱原発世界会議

2012年1月14~15日、ピースボートら6団体の共催で原子力のない世界を目指す「脱原発世界会議 2012 YOKOHAMA」が開催された。(パシフィコ横浜)会議への参加者は、海外からの約30カ国約100名を含めて、2日間でのべ1万1500人になった。また、会議はインターネットで全世界に中継され、約10万人が視聴した。この会議をきっかけに、全国の64の自治体の首長による「脱原発を目指す首長会議」が発足(2012年4月28日)。原発ゼロを目指して活動を始めた。大飯原発の再稼働については「拙速に陥らず、自治体、住民の合意形成を求める」として反対した。この事実は毎日新聞、東京新聞などで取り上げられている。

国後島への渡航

第38回クルーズに於いて、ピースボートは日本・ロシア間の領土問題となっている国後島へ渡航した。領土が他国に占拠されている状態で日本人が渡航してしまうと、その領土があたかも相手国の領土であるかのごとく入域することになる。そのため、北方領土に対する日本の法的立場を害することになるおそれがある。こうした危惧から日本の外務省はピースボートに対し事前に渡航自粛要請をしていた。しかし、ピースボートは渡航を敢行した。クルーズ後の2002年10月31日に、外務省は欧州局ロシア課長名でピースボートに改めて自粛を要請した(自粛を再要請した事実はピースボートのHPに記述されている(2002.11.1))。

ピースボート側は、外務省側からは事前に国後島への渡航に関して「問題はない」との回答を受けており、日露市民相互の信頼関係を築くための国際交流の一環であり、まったく正当なものだと主張している。またピースボートの訪問は、外務省の見解に沿うようロシア政府の領土であることを認めない、ビザなし、パスポートなしの形で行われたとしている。

北朝鮮への渡航

「アジア未来航海」と名づけられた第29回クルーズや、「コリア・ジャパン未来クルーズ」と名づけられた第50回クルーズなど、ピースボートは数回にわたり朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ渡航している。また万景峰号をチャーターして北朝鮮へのクルーズを行ったこともある。

そうしたことで、「ピースボートは北朝鮮寄り」とする声が存在する一方、これも「国際交流」のあり方の一つであるとの意見もある。

海賊対策での海上自衛隊派遣問題

ピースボートは海賊対策での海上自衛隊派遣に反対していたにも関わらず、第66回目の世界一周航海の際、ソマリア沖・アデン湾を航行中に海上自衛隊の護衛を受け、「主張とのギャップ」が産経新聞で報じられた。