後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

東京都立八国山緑地・・・ホトトギスの鳴いている雑木林の道

2013年07月05日 | 写真

西武鉄道西武園線の東村山駅の次の西武園駅(終点)で下車し、東方向へ徒歩5分で、下の写真のような入り口があります。駐車場は一切ありません。

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この入口の左は下のような芝生の岡です。右の方へ伸びている道はすぐに雑木林の中へ入り、薄暗い道がえんえんと2kmくらい東へと伸びています。

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雑木林には大きな木々が繁り、昨日はホトトギスがしきりに鳴いていました。下の写真のように深い森です。

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この細長い緑地の東端まで歩いて来ると「将軍塚」があります。下の写真にある道案内から100mの所にあります。

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そして将軍塚の場所には下のような説明板があります。

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将軍塚といっても特に塚山があるわけでもなく、雑木林の中に「将軍塚」と彫り込んだ石柱が一本立っているだけです。

兎に角、なんにも無い公園です。深い雑木林の中に遊歩道がえんえんと続いているだけの公園です。木々が邪魔になって見晴らしも良くありません。

雑木林をただただ歩くことが楽しいという方々の為の公園です。雑木林が好きでなかったら行ってはいけない場所です。

私は雑木林が好きなので、かなり興奮して歩きまわりました。ホトトギスの声が森にこだましていました。(終わり)

=====新田義貞に関する参考資料============

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。

正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。1300年生まれ、1338年没。

鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立。

尊氏が建武政権に反旗を翻すと後醍醐天皇の尖兵としてこれに対抗、各地で転戦するが、箱根や湊川での合戦で敗北、後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。

以下は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E にあります。


清貧の思想と日本の豪華客船の世界(続き)

2013年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日の、清貧の思想と日本の豪華客船の世界 という記事の続編です。今日は日本古来の清貧の思想と豪華客船の関係を書きます。

明快に書いてしまえば、清貧と豪華客船は実に対照的なものです。

清貧は毎日3合の米と少しばかりの野菜をおかずにして小さな家につつましく生きてゆくことです。豪華客船は清貧の思想に矛盾する存在です。豪華客船などに乗ってはいけません。

両者はまったく関係ありません。これが結論です。

しかし豪華客船に乗ってみるとそのあまりにも贅沢さに驚いて、瞬間的に清貧の思想を思い出すのです。そして自分のしている行為の意味をいろいろ考えてしまいます。

お金を使うことは日本の景気をさらに良くします。

そして船上で掃除や料理や給仕などの仕事をしている150人くらいのフィリピンやインドネシアの若者の生活を支えているのです。彼らの家族の生活を支えているのです。彼等こそ清貧な生活をしているのです。ですからこそ彼らに対して礼儀正しく接する気持ちになります。

そして私の心が言います。「贅沢を少し楽しむのはよいが、それに溺れてはいけない」とささやいています。

そこで2日目の午後は5階左舷の階段の踊り場に椅子を出して夜まで海を眺めていました。私は人混みを避けて静かにしていたかったのです。

家内は後部デッキでの500人集合写真や騒がしいビンゴゲームやオークションに興じていました。

船は相模湾の真ん中を南下して、三浦半島の城ケ島を回り込み、東京湾に入ります。左舷に座っていたので真鶴半島や湘南の海岸が遠望出来ます。江の島もはるかに見えます。

海から遠景の陸地を見ていると、太古の昔から住んでいた人々の暮らしぶりがあれこれ想像できます。

そうしていたら急に船が狭い浦賀水道に入りました。右舷には下の様な房総半島の鋸山がまじかに見えるのです。

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そして横浜の高層ビルが大きなベイブリッジの向うに見えます。そこを過ぎると下の写真のように川崎の扇島にある旧日本鋼管の溶鉱炉が2本見えてきます。

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高い塔のような縦型の炉から右のほうへなだらかな角度で棒のようなものが下がっています。その棒のように見えるものの中には巨大なベルトコンベアーが昼夜連続で動いていて、溶鉱炉の上にある装入口へ鉄鉱石やコークスを運び上げているのです。この風景を見ながら、1958年の夏にこの溶鉱炉工場で大学の卒業に必要な工場実習を1ケ月間したことを思い出していました。

当時は日本もまだ貧しかった時代でした。毎日、少しでも多くの鉄を作ろうとして技師も職工も必死でした。

工場実習では溶鉱炉の操業をを理解させ、働く人々の姿を見せて技師になる職業教育をしようとしていたのです。

そんなことを想いながら海を見ていました。いつの間にか暗くなっていて、頭上には下の写真のようなレインボーブリッジが見えてきました。橋の向うに古い東京タワーが小さく見えます。この東京タワーは日本の経済成長のシンボルだったのです。

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こうして午後から夕方にかけて自分一人の自由な時間を持つことが出来ました。

そして、どんなに贅沢をしても「清貧の思想」を忘れない方が良いのではないかと思いました。そうすると贅沢がより一層楽しくもなるのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)