後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

奥多摩街道をさかのぼる小さな旅

2013年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム

以下は私の個人的な思い出の記ですが、全国には同じような思い出をお持ちの方々も沢山いらっしゃると信じています。

それはさておき、東京にある奥多摩街道は甲州街道を日野橋交差点で別れ多摩川の北岸をえんえんと登って行く街道です。

昭島、福生、羽村、青梅と通り、そこからはJR線の御岳駅、古里駅、鳩ノ巣駅などを経て奥多摩駅まで登って行きます。

その先は奥多摩湖(小河内ダム)沿岸を通過し、山梨県の丹波村を経て柳沢峠を越して甲府盆地へ降りて行きます。山梨県の丹波村と東京の奥多摩町の境が奥多摩街道の終点と思います。

1964年に小金井市に引っ越してから50年間ほどのあいだに何度も遊びに行った思い出深い街道です。

若かったころ家族で川遊びに行ったことなど考えながら、今日は鳩ノ巣駅まで行ってきました。

奥多摩街道をさかのぼる小さな旅の写真を下にお送りいたします。Img_9196

上と下は福生市の奥多摩街道沿いにある文政5年創業の田村酒造です。

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この田村酒造の隣に玉川上水が流れていて、下の写真の右側に奥多摩街道が見えます。

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上の場所から数Km上流に行くと玉川上水の水の取り入れ口の羽村の堰があります。そこから多摩川の上流を見ると下の写真のように見えます。今日は曇っていて御岳山など遠方の山並みが見えませんでした。

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この場所から下流を見ると下の左の写真のような羽村の堰が見えます。

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羽村の西の青梅を通過して、さらに多摩川沿いに登って行くと昔と変わらないたたずまいの「へそ饅頭」の店があります。寄って家内へのお土産を一箱買います。いつものように蒸したての饅頭一個をおまけにくれました。

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JRの沢井駅の下までくると左の写真のように「澤の井」の小澤酒造があります。右はその近くの奥多摩街道です。昔は道幅も狭く、よく曲がっていた街道でした。道路の幅を拡げ、トンネルや橋を作って直線にしました。隔世の感です。

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左の写真は御岳駅の前にある橋から多摩川を見下ろした写真です。多摩川もここまで登ると川幅も狭くなり、清流が岩を噛んでいます。橋の上から、戦前からある河鹿荘という旅館と玉堂美術館をしばし眺めていました。

 上の右の写真はJR鳩ノ巣駅です。1960年の7月に妻と初めてデートで来た所です。私がアメリカ留学へ出発する2日前のことでした。

 そんなことを考えながら、今日はここで引き返して来ました。

それにしても奥多摩はさびれています。昔の奥多摩は熱海や箱根ほどではありませんが、東京に一番近い観光地として何時も観光客で賑わっていたものです。

東京のあちこちに遊び場が出来、みんながそちらの方へ行くようになったのでしょう。観光地も時代に従って変わって行くのです。それにしても何故か淋しいです。(終わり)


水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第二章、屈辱の日々そして恩師との出逢い

2013年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム

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(間山陵風師の七言律詩の書)

水木りょうさんは「趣味人倶楽部」というSNSでお付き合いしている方です。青森に住んでいて書家として活躍しています。お弟子さんも多数います。

その人間性に魅かれて、以前もお願いして、このブログに高橋竹山さんとの交流の連載記事を書いて頂いたこともあります。

その水木りょうさんの実父は間山陵風という傑出した書家です。

その作品は、見た人の体が熱くなるような情熱的な書です。

青森を愛し、弟子たちを数多く育成しました。

惜しくも1998年に亡くなられましたが、その弟子たちは東京で、そして海外で活躍しています。その弟子たちのブログやHPは間山陵風を検索するといろいろあります。

今回の第二章では間山陵風が少年の頃に習字を始め、書家になっていく経緯が描かれています。人間の運命の不可思議さに心打たれる話です。

====第二章、屈辱の日々そして恩師との出逢い==========

入退院を繰り返し、何ヶ月も学校を休みすっかり元気をなくしていった浅市だった。
医者は足を切断すると早く治るというが、絶対に足は切りたくないとすねる子に母は困惑した。
知人親戚から治療にいい話を聞くと東に西に、息子をリヤカーに乗せて連れ歩いた。藁をもつかむ気持ちだったのだろう。温泉湯治も何度もしたという。

母の妹が温湯温泉の近くに住んでいて、そこに泊まらせ温泉治療もした。その叔母は食事まもとより、いろんなことを世話してくれた。

ランプの宿で有名な『青荷温泉』で温泉治療をしたときは、顔が変形した人がいて怖くてたまらなかったそうだ。おそらく戰爭での傷痍軍人か、皮膚病で冒されたのか知らないという。寂しさと怖さを払拭するために、読書と書を懸命に学んだそうだ。
温泉のお蔭で足も次第に治って来た。しかし細く曲がった足では走ることさえできない。当然軍事訓練など無理なので、中学校を諦めて尋常高等小学校へ進学をした。
母がリヤカーで乗せていくというのを断り、松葉杖で片道4kmの道を毎日通ったのだった。

そして書道塾へもまた通いだし、どんどん腕を上げていった。

尋常高等小学校の成績も甲乙丙丁戊の評価の甲ばかり並んでいた。体育だけは見学だったので甲はとれないが、先生の計らいなのか乙をつけてくれたという。

14歳の最終学年のころ、日頃から温かい言葉をかけてくれる担任の斎藤先生がある日職員室に来なさいと言った。
心配そうに浅市少年が行くと、彼は大きな声で
「おぉ~間山君、来たか!みなさんよぉく聞いて下さい!この間山君は足を悪くしてもくじけず、書道を一生懸命に勉強してるんです。見てください!この字を!すごいでしょう!いやぁなんぼ頑張っても、おらでも(俺には)こうは書けないわ」
先生方は一斉に拍手をしてくださった。

恥ずかしくなって下を向いてる浅市に更に先生は、
「間山君!おめ習字の先生になれ!おめだば(おまえなら)日本一の先生になれるはんで!けっぱれよ~なっ間山君!」

父は何度私たち息子や弟子にこの話をしたことでしょう。
嬉しくってたまらなかったんでしょうね。

先生の励ましで、家のこんにゃく屋の手伝いをしながらも、14歳で卒業した後も書道塾へ通っては勉強をつづけたのであった。
そして15歳ですでに師匠の代稽古を任されるようになった。

師はお酒と女好きでよく女が迎えにくると、
「間山君、よろしく頼む!」と言って浅市少年に任せて出かけてしまうのだった。
上手いとはいえまだ15、6歳の少年である。自分より歳の上の人たちに教えるのは・・・特に若い女性のときは真っ赤になって教えたそうだ。

師匠の書の友人がよく集まると、「君が間山君か、うちの書道塾にも顔を出さないか」と誘われるようになった。(第2章 終わり、第3章へ続く)

====間山陵風に関する参考資料===============

1927(昭和2)年、青森県に生まれる。
古典を学び古典を活用して、現代の書を創ることを目的とし、大自然の秘奥を師に自由奔放なる書を目指した。“書は万人のものなる、専門家の独占にあらず”が信条。
1957(昭和32)年、筆をみずみずしい茎に例え『水茎書道会』を創設し数多くの後進を育成。
青森県文化振興会議の運営にも携わり『青森県美術展覧会(県展)』の審査員として書の発展に努めた。
1998(平成10)年逝去。(上の文章の出典:http://www.value-press.com/pressrelease/49327

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上は昭和15年~19年の頃の学校の様子です。皆真剣に書いています。

そして下の写真は終戦直後で、間山浅市さんが20歳ごろ写真と思います。子供たちは弟子と思われます。

この写真の子供たちの顔をよくご覧ください。とても明るく、楽しげにしているのです。浅市青年から書を習うのが彼らにとって何よりの楽しさだったのでしょう。

終戦直後の暗い世相なのにこんなに明るい表情をした子供たちが居たことに驚きます。同じころ少年だった私はひもじくて、毎日暗い気持ちで暮らしていたのです。

浅市青年の弟子たちに対する愛が子供達を明るくしたのかも分かりません。その愛が写っているような写真です。

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それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)