水木りょうさんは「趣味人倶楽部」というSNSでお付き合いしている方です。青森に住んでいて書家として活躍しています。お弟子さんも多数います。
その人間性に魅かれて、以前もお願いして、このブログに高橋竹山さんとの交流の連載記事を書いて頂いたこともあります。
水木りょうさんの御父上が竹山さんと親しくて、水木りょうさんも竹山さんのことを詳しくご存じでした。
そこで今回は御父上の書家、間山陵風師の生涯について連載記事をお願い致しました。
お忙しいなかを時間をやりくりして感動的な物語をお送り頂きましたので、以下に第一章から順次、連載をして行きたいと思います。
なお水木りょうさんのことは2012年5月12日掲載の、たかがブログ、しかし内容の深い話し合いも出来るのです という記事の中でご紹介してあります。ご参照頂ければ幸いです。
====水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第一章、生い立ち=====
私の父、書名=雅号ともいいますが、「間山陵風=マヤマリョウフウ」は昭和2年8月16日、青森市大野字北片岡のこんにゃく屋の四男として生まれた。名前は浅市。
父、沢次郎は明治10年荒川の地主の家に生まれたが、次男のため山から里へ降りてこんにゃく屋を営む。
そこで大正6年、40歳になった沢次郎は津軽の田舎の黒石から「つえ」という19歳の娘を嫁にもらった。21歳も離れた嫁だった。
当時は15、6歳で嫁にいくのが通常で、つえはこの縁談をことわればもう行きてがないと諦めて来たのだった。
大正7年、長女を産んでから、1年2年ごとに次々と出産、男7人女2人の子を授かったのだった。
当時はみなそれが当たり前だったようだが、商売をしていて朝早い仕事なのに子育てから商売から、つえの身体は大変つらいものだったことだろう。
信心深いつえはお寺にも足繁く通い、子供の成長を毎日祈ったという。
浅市は幼児のころは病弱だったものの学校に上がるころはすっかり丈夫になり、7歳のころすでに同学年のガキ大将になっていたそうだ。
その頃はもう長男の沢一は中学校に進み、次男三男も小学校では級長をしていて、兄弟みな学業、運動ともに優れた兄弟であったそうだ。
学校対抗の競技大会では間山家の兄弟姉妹が大活躍で有名だったそうだ。
そんな中、浅市少年も3年になったとき、やはり運動に長けていたので、兄たちを指導した運動部のS先生が声をかけて陸上部に入部させた。
兄たち同様に厳しいトレーニングを課せられても、音を上げない浅市は、記録をどんどん伸ばして、小学3年で100m15秒台、走り幅跳び3m90cm、父は夢の中である飛び方を試し4m30を跳んだので、学校でそのとおりに飛んだら3m90の記録がでたのだと話してくれた。
私もひとつ上の兄も父の少年時代の話を聞くたびに目を丸くして聞き入ったものだった。
昭和9年、満州や支那に行った日本の兵隊たちが苦労を重ねていた時代、子供たちは知る由もなく勉強や遊びに明け暮れていた。
母つえはお寺(法華寺)の檀家仲間の誘いで自分の子供の誰かに習字を習わせることを約束した。その結果、浅市が習うことになった。それが何故父の浅市だったのか、私は聞いていなかった。
学問に優れていた家系であったので、習字でもすぐに頭角を表していって、半年で学年のトップになって師匠に褒められ、ますます習字が好きになっていったそうだ。
しかし陸上の練習がきつくても習字のおけいこにも休むことなく通ったというから、まだ9歳の少年にはかなりハードな生活だったと思われる。
秋の競技大会のために、練習がきつくなったある日、浅市少年は走り幅跳びの練習の最中に転倒して足をくじいた。
その夜に、くしくも高熱が出て何日もうなされる病になってしまった。
数日がたって右足が異常に腫れ上がってあまりに苦しむので、母は近所の医者に連れていったら入院をすすめられた。病名がはっきりしないが感染症だろうということで治療したが、当時はいい医師は支那に渡っていて、まともな治療が受けられなかったという。
今なら学校の指導の行き過ぎを指摘しただろうが、当時は先生のすることに何も反論しなかった時代でした。
S先生はたまに見舞いにきては頭をなでていくだけだったそうだ。
その近所の医者は県立病院に転院を勧めたという。
県立病院で診察を受けたら、もっと早くこちらにくればよかったのにと言ったそうだ。
商売に忙しい母はそんな余裕もなかったと、後に涙を流しながら『浅市には可哀想な事をした』と周りに話していたそうだ。
浅市少年は毎日休むことなく働き続ける母を責めることはできなかった。どんなに苦しくても痛くても泣き声をださずに治療では歯を食いしばってこらえたといいう。
腫れ上がって色が変わってくる右足のバイ菌をとるために、当時麻酔もないので熱いやけた火箸のようなもので足の内部を焼いたそうだが、そのとき10歳の少年は「クッソ~!!クッソ~」と叫びながら耐えたそうだ。
そして夜になるとうなされて忍び声で泣く声が病院中に響き渡ったそうだ。これは当時父の看護に当たった看護婦さんが助産院を開き我が家に来たときに、何度のその話を聞かせてくれた。(続く)
下の写真は水木りょうさんの祖母の「つえ」さんの生まれ育った津軽の里から見える岩木山です。
自宅で購読している新聞は何十年も読売新聞です。以前は朝日でしたがその左翼傾向の強さに辟易して止めてしまいました。
ところが最近、朝日新聞も読むようにしています。高校野球の記事が内容豊かで充実しているのです。ついでに国際ニュースや学芸欄も見ます。
驚きました。実に執筆陣が多数で上質な記事です。
朝日新聞は共産主義者が幹部にいたり、中国共産党の応援記事を書いたりして不評を買い、随分と購読数を減らしましたが、その政治記事だけを読まなければ日本の一流の知的な新聞です。
記事を書く前によく勉強してから書いている様子が歴然としているのです。立派な姿勢です。
それに比較すると(比べるのも烏滸がましいのですが)このブログの記事は貧弱過ぎます。しかも記事を書く前にあまり調べたり、勉強したりしません。
宗教や政治に対する考え方も一種独特でかなり偏っています。
しかし何故、毎日750件ほどのアクセス数があるのでしょうか?
その理由はたった一つと思います。普通の日本人が、普通の日常で経験したことや感じたことを正直に本音で書いているからです。
時には足を運んで取材して、個人的な感じ方を書いているからです。
それをしても「ゴマメの歯ぎしり」で世の中は全然変わりません。
ただ読んでくれた人が私の感じ方に共感し、その日、いちにち幸せな気分になってくれればそれで良いのです。
私はこのブログで「幸せな気分」をお配りしているつもりです。
実例を一つ下に示します。先日、高校野球を神宮球場へ見に行ったとき両方の応援席のブラスバンドを撮った写真です。
上は質素なある都立高校のブラスバンドです。そして下は裕福なある私立高校のブラスバンドとチアガールの写真です。あまりよく見えませんが中央に数十人のブラスバンドがいて、それを取り囲むように応援団、チアガールがいます。家族も多く応援席にいます。
この2つの光景を見て、昭和11年うまれの私はショックを受けました。
高校野球を60年間も見なかったから受けた衝撃です。
私が仙台一高で野球部の応援をしていた頃はまだ日本が貧しくて、ブラスバンドなどは進駐軍の行進のときしか見たことが無かったのです。
球場の色彩の華やかさやブラスバンドを見て、その贅沢さに衝撃を受けたのです。
次に私は感じたことは地方の甲子園予選試合でもこんな豪華な球場でブラスバンド付の応援を受けてるのだろうかという心配です。
それは全く余計な心配ですが、都会と農村の格差を経験してきた老人の私にとっては、それがまず心配になります。
そしてこのような環境で総数4014校もの高校が参加する大規模さに驚きます。
このような時代に高校生になった日本人は本当に幸せだとしみじみ感じました。
開会式で朝日新聞の偉い方が日本軍部の批判するような内容の話をしていました。それは場違いな話です。高校生たちはキョトンとしていました。
「戦争で甲子園大会が中断したのは残念でした」だけで止めておけば良いのに、ついでに軍国主義を難ずるような話までするから朝日はやっぱり左翼だと言われるのです。
それにしても日本は豊かになったものです。私はそのことを心の中で祝福しながら帰ってきました。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)