以下は「カトリック初心者」さんからの、「永遠の命」についてのご質問です。
まず質問を紹介し、その後で私の考えを書きたいと思います。
====カトリック初心者さんからの「永遠の命」に関する質問======
コメントの前の部分は省略します。
このブログの、人間は老人になると善い顔、明るい顔、平安な顔になる・・・20回の連続観察の結果より という記事に書いてあったことについてまず感想を書きます。
『余命がそんなに長くないことを知っています。悲しい筈ですが、その事が今日も元気に横浜で会えたことを楽しくさせるのです。今日も生きていることに心が弾みます。当然、明るい顔になります。老いの華やぎという表情になります。』
この文章がとても心に残ります。名言だと思いました。老いへの不安が軽くなりました。
そして、私がこれから一生をかけて理解していくことを後藤さんに訊ねてみたいと思いました。
教理を学ぶにつれ“永遠の命”という言葉が聖書に出てきました。
・ヨハネ3:16神はその独り子(イエス様)を(人間へ)お与えになったほどに、世を愛された。独り子(イエス様)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
・ヨハネ5:13神の子(イエス様)の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、(あなたがたは)永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
・ヨハネ10:28私(神)は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私(神)の手から奪うことはできない。
などです。“永遠の命”とは、どういうことを意味するとお考えですか?
もしよろしければ、気が向かれた時でもお考えを聞かせていただけたら嬉しいです。
昨日の朝、山本神父さまに洗礼を授けていただきたい旨を申し出ました。本日ご連絡があり、近いうちお目にかかって相談する運びとなりました。またご報告させていただきます。
(上の文中でカッコとその中の言葉は私が分かりやすくするために追加しました)
さて、神が人間へ与える永遠の命とはどういうことなのでしょうか?
それは人間が死ぬと、神様がその人間をご自分の足もとによびよせて永遠に生きさて下さるということです。神を信じる人は例外なく全部呼び寄せて下さいます。そして永遠の命をさずけてくださるのです。
この事実を科学的に実験して証明することは不可能です。ですからキリスト教を信じているヨーロッパ人もアジア人もみんなこの教えを信じません。疑います。しかしある瞬間、本当にそれ信じるをことがあるのです。
よく信仰は99%との疑いと1%の確信ですと言います。この1%の確信があるので私はキリスト教徒ですと公言してはばからないのです。
永遠の命の意味を探すのは無駄な努力です。それを信じるように努力するほうが良いのです。
それは毎日、朝、昼、晩の食事の前に毎回短く声をあげて祈ると、信じられる瞬間が増えて行きます。
私は家で食事をするときは必ず、「食前の祈り」を声をあげてします。外食のときは声を上げません。
その時、「私は永遠の命を信じます」と唱えて下さい。
すると少し信じられるようになります。
ですからこの文章を書いている間だけは、「永遠の命」を信じています。
信仰は訓練で少しずつ得られます。ミサに出席することも宗教的訓練です。祈りを唱えることも訓練です。聖歌の練習も宗教的な訓練です。
訓練や修行で悟るのはすべての宗教で共通なことです。
洗礼を受けることも訓練です。
信仰とは理論的に考えるよりは、宗教的な訓練をすると得られると私は信じています。
これが答えになっていない私のお答えです。
ご質問を頂いて有難う御座いました。(終わり)
下の写真は長崎の大浦天主堂を少し変わったアングルから私が今年、撮った写真です。