=====第八章(最終章) 『陵風』書と民謡の関わり===========
書道会にはイデオロギーを超えて人々が集まっています。
一つのものに偏っての意識はもたないという方向に私は父の影響があります。
それがいいのか悪いのか、だから名声や地位とは無関係になっています。
書道は青森県内ではまずまずの知名度を持った陵風でしたが、中央とのパイプが薄いために損をしてるという事実は否めなかった。
社中展での高評を作家に書いて頂くのが通常でしたので、ある年は蘭山氏に頼むことになった。
この頃は蘭山氏も父との関わりは以前とは違い、互いに展覧会でや会議では交流を深めていたので、父は蘭山氏にも頼んだのだった。しかし原稿の事前の報告もなく載った記事は、私や会員には屈辱的で蔑んだような内容に思えた。
それで父に内緒で、私は独断で彼の勤務先に乗りこんだ。
ドアを開けてすぐに、挨拶もなく「何ですか?あの内容は!私たちは何ヶ月も懸命に学んで発表したんです。中央中央って、何なんですか?あなたはそれだけ偉いんですか!もっと書道の根本から見直したらいかかですか?」
言葉は丁寧かもしれないが、いきなり青年が表れて会社の部下の前で怒鳴られて、驚いたことでしょう。
若気の至りですね。27歳ころの無鉄砲で礼儀しらずのバカ者でした。
父にめっぽう怒られるかと思ったが、その話は別の場所で聞いたらしいがお咎めはありませんでした。
水茎書道の道場は他に珠算教室にも使い、父の兄の澤義=雲龍氏が津軽民謡でも使っていました。
昭和34年から発足会には師匠の『成田雲竹師』がおいでになり、津軽山唄、謙良節、りんご節など歌いました。
伴奏はまだ無名の高橋定蔵=竹山師が一緒についてきました。
叔父の民謡道場は「日本民謡協会支部、成田雲竹流民謡外ヶ濱会」が正しい名称でした。
私の家の玄関には最高で三つの木の看板が掲げられていました。三つ目は竹山津軽三味線研究会でした。
毎週水曜日高橋竹山さんがバスで小湊からおいでになるので、迎えに行く役が兄貴か私でした。
目の不自由な先生がバスから降りて駆け寄ると、「おぅ居たが・・」と独特のしわがれ声で言った。
お稽古には現在師匠になっている方々がまだ初々しく習っていました。西川洋子、楠美竹善、水上幸子、神戸で活躍の長崎栄山、二代目になった高橋竹与、内弟子の先輩の方々、そして私の兄、弟、母、妹もでした。
書道の研修会で年一回八甲田山の蔦温泉で大々的に開催されるときは、(毎年書道民謡総勢40~80名)、高橋竹山師は必ず顧問として来てくれました。
蔦沼や長沼の前で静まり返った中で、尺八や笛の独奏、雲龍先生や弟子の工藤竹風氏、後藤吟竹氏などが木挽唄や津軽山唄を歌ってくれました。
書道の子供達が唱歌を歌って和ませたあとに、沼によびかけをさせますと、その声が沼に響き渡り鳥たちも静かになるほどでした。
旅館にもどってからは書法要義の臨読や陵風の講義が始まり、その内容は自然から音楽から書の奥義を学ぶ方法などでした。
そして大きな紙への揮毫などをします。皆さんが書いている合間に、高橋竹山師は伴奏を低く演奏してくれたものでした。
しあわせな弟子たちだったと思います。
この蔦研修会は15回ほど開催し、蔦の恒例の行事として社長の小笠原氏は心に刻まれていたことでしょう。
昔、大町桂月がこよなく愛し、田中智学の御曹司『蘭川先生』も2度ほど研修会を行ったのです。
間山陵風が蔦にこだわった気持ちがよく分かります。
これらの経験から高橋竹山師はのちに寒撥(カンバチ)での賞に繋がり、津軽三味線の独奏曲の作曲の源になったと伝えております。
民謡の例会が終わると母八重の手料理を楽しみにしていた竹山師、いろんな過去や現在の思い出や悩みを打ち明けて陵風やその兄の雲龍と涙したり、手を握り合って友情を噛み締めたと話していました。
雲龍が自分の道場を建設するまで15年もの間、間山陵風と民謡外ヶ濱会は一心同体でありました。
今、父も雲龍も高橋竹山もこの世の人ではありませんが、きっとあの世で笑って酒を酌み交わしてるのではないでしょうか。
不肖むすこの私が父の果たせなかった個展を『遺墨展』として開催するのが責務だと思っております。
長く拙い文章でも最後まで読んで下さった皆様と、この機会を与えてくださった後藤様に深く感謝申し上げて筆を置きたいと思います。(完結)
下の写真は揮毫中の間山陵風と津軽三味線をひいている高橋竹山の写真と間山陵風の書の写真です。