======第四章、政治運動と書の勉強と恋==========
新しい師との出逢いで目標を得た浅市は、こんにゃく屋の仕事が終わるとすぐに買ってきた本を読み始めた。
田中智学先生の著書とその息子の澤二先生の著書を交互に何度も読み返したそうだ。また養正時評のなかに書かれていたところの、藍川流(ランセンリュウ)書法要義は、書を学ぶ浅市にとって、画期的な内容だった。
それまでは、翠軒流や、当時主流をなしていた中央の上田桑鳩や西川寧、青山杉雨などの方向を目指していた浅市にとって、藍川流の考え方は新鮮だった。
「書は万人のものであって、一書家のものではない。師匠の物真似などもってのほか、書は自然の形象に学ぶこと。雲の流れ、水の流れ、よき建築物の構造から学べ、あらゆる自然や景色や音楽や文化芸術から学べ」と、抽象的であるが、浅市の耳には心地よかった。
また王羲之、空海、良寛などのどこがいいのか、書を書いてみせての解説はないのだが、古典を研究するには十分な教義として、毎日の鍛錬に励んだ。
漢詩などを書くときは詩吟を、短歌を書いてる合間には朗詠をと。浅市は朝はやく起きると、師から聞き覚えた節を歌っては、天皇陛下の写真に敬礼をして仕事を始めた。
もし浅市が藍川師(田中澤二先生)に会わなければ、きっと他の先生のように、日展や毎日展などに出して、弟子を多く取り安定した書道の大家を目指していたことでしょう。
2ヶ月に一回、お金がたまると、一人でも上京し総裁先生の許に書いた書を携えて行った。
まずは1日二日、朝の奉公としてお手洗いや庭の掃除、草むしりなどをした。
廊下を歩く師が自分に気づくようにと働いたそうだ。そのうち青森からの同志も数多くいて馴染みになっていった。
『お前んとこのこんにゃくいつも買ってるぞ』とか『誰それを知ってるか、今度遊びに来いよとか』・・・
ほとんどが年上で、殆どが国柱会か、養正会の会員で書道だけの用事できていた浅市だが、養正会にも入会した。
書の添削は時間があるときは目の前で朱を入れてくれることもあったが、忙しいときは置いて帰ったこともあったそうだ。
後に手紙がきて文面での添削だったり、何も添削もないこともあった。敷居が高くめったに会えない師であって、雲の上のような総裁であった。浅市はやがて田中澤二先生のことを藍川先生と呼ぶようになった。
青森では選挙があり、会から立候補するものがあれば、応援に出向いたり、決起大会などがあれば誘われて弘前、黒石、五所川原など同士の家を回ったりした。
戦時中、そんなにも忙しくしていたためか、国のご奉公での軍需工場などへ行ったという話は聞いたことがない。
こんにゃくを作っては売って、ほかの時間は書の勉強と同志との交流に明け暮れていた20歳前後の若者だった。
そうしてるうちに浅市は津軽弘前のとなり村の黒石の同志の成田という床屋に泊まったとき、そこの娘の『八重』という3つ年上の女性と知り合った。
父親の床屋の跡取りとして免許を取って22歳になりながらも嫁にも行かずに働いている娘だった。
「浅市さんは書道の先生になりたいという夢、是非かなえてほしいわ。八重子も応援いたします」
それがきっかけで手紙をやりとりするようになった。
(その八重はやがて私たち兄弟の母になる女性であった)
その手紙の文字は美しく、やはり書を習っていたようで、浅市とは違った書の上手さが感ぜられた。
二人共兄弟が戦地へ赴いていたので、戦地の状況を分析したりお互いの親を気遣った内容で、今のように惚れた腫れたといった浮ついた内容ではないと父も母も言ってた記憶があった。
東京の藍川先生から
「最近の浅市の書は身が入っておらぬ、戦時中で大変なのはわかるが、心ここにあらずといった書である。もっと気の入った書を書かぬならやめてしまえ!」といったお叱りの手紙を受け取ったこともあった。
たぶん八重との恋で勉強に身が入らなくなったのかもしれない。
しばらく会わないことにしよう・・・との約束もしたが、若い二人である。いったん火がついた想いはくすぶってはいてもすぐに再燃するのであった。
浅市は真冬でも汽車に乗っては弘前ちかくの駅に降り、そこから4里半もの田んぼの一本道をびっこをひきながら歩いた。横から吹き付ける津軽特有の地吹雪に何度も息が止まりそうになりながら、恋する乙女に会いたい一心で何度も訪ねていっては先方を驚かせた。
父親の成田彦蔵さんは『浅市さんに嫁にアゲたいのは山々だが、八重はうちの跡取り娘、うちに婿にきてくれるならいいが』と言ってたそうだ。
浅市は戦地へ行った兄との約束がある。
そうこうしてるうちに時は昭和20年の春を迎えた。(五章に続く)