後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

蓮の花を見るとお釈迦様を思い出す

2013年07月19日 | 写真

お釈迦様は死後に自分の墓も仏像も作るなと遺言して入滅しました。その遺言通り、死後400年くらいは仏像が一切存在していませんでした。

現在のネパールにあるルンビニという土地でで生まれたのが紀元前463と言われています。そして入滅が 紀元前383年と考えられています。

修行して、悟りに至る間、蓮の花があちこちに咲いているインドの各地を巡り歩きました。そのせいか後に作られた仏像には巨大な蓮の花の上に座っているものが多いのです。

私の祖父が住職をしていた兵庫県の山郷のお寺の本堂には、真鍮で作った蓮の花が大きな葉の上で咲いていました。それは黄金の蓮の花のようで、子供心に印象深く焼き付いています。

ですから私は蓮の花を見るとお釈迦様を思い出します。優しかった祖父や祖母のことを思い出します。茫々70年くらい前の思い出です。

そのような理由から毎年夏になると近所の真蔵院というお寺に数回行って蓮の花の写真を撮ります。

今日も行って来ましたので、皆様へその写真をお送りいたします。

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水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第四章、政治運動と書の勉強と恋

2013年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

======第四章、政治運動と書の勉強と恋==========

新しい師との出逢いで目標を得た浅市は、こんにゃく屋の仕事が終わるとすぐに買ってきた本を読み始めた。

田中智学先生の著書とその息子の澤二先生の著書を交互に何度も読み返したそうだ。また養正時評のなかに書かれていたところの、藍川流(ランセンリュウ)書法要義は、書を学ぶ浅市にとって、画期的な内容だった。
それまでは、翠軒流や、当時主流をなしていた中央の上田桑鳩や西川寧、青山杉雨などの方向を目指していた浅市にとって、藍川流の考え方は新鮮だった。

「書は万人のものであって、一書家のものではない。師匠の物真似などもってのほか、書は自然の形象に学ぶこと。雲の流れ、水の流れ、よき建築物の構造から学べ、あらゆる自然や景色や音楽や文化芸術から学べ」と、抽象的であるが、浅市の耳には心地よかった。
また王羲之、空海、良寛などのどこがいいのか、書を書いてみせての解説はないのだが、古典を研究するには十分な教義として、毎日の鍛錬に励んだ。

漢詩などを書くときは詩吟を、短歌を書いてる合間には朗詠をと。浅市は朝はやく起きると、師から聞き覚えた節を歌っては、天皇陛下の写真に敬礼をして仕事を始めた。

もし浅市が藍川師(田中澤二先生)に会わなければ、きっと他の先生のように、日展や毎日展などに出して、弟子を多く取り安定した書道の大家を目指していたことでしょう。

2ヶ月に一回、お金がたまると、一人でも上京し総裁先生の許に書いた書を携えて行った。
まずは1日二日、朝の奉公としてお手洗いや庭の掃除、草むしりなどをした。
廊下を歩く師が自分に気づくようにと働いたそうだ。そのうち青森からの同志も数多くいて馴染みになっていった。

『お前んとこのこんにゃくいつも買ってるぞ』とか『誰それを知ってるか、今度遊びに来いよとか』・・・
ほとんどが年上で、殆どが国柱会か、養正会の会員で書道だけの用事できていた浅市だが、養正会にも入会した。

書の添削は時間があるときは目の前で朱を入れてくれることもあったが、忙しいときは置いて帰ったこともあったそうだ。
後に手紙がきて文面での添削だったり、何も添削もないこともあった。敷居が高くめったに会えない師であって、雲の上のような総裁であった。浅市はやがて田中澤二先生のことを藍川先生と呼ぶようになった。

青森では選挙があり、会から立候補するものがあれば、応援に出向いたり、決起大会などがあれば誘われて弘前、黒石、五所川原など同士の家を回ったりした。
戦時中、そんなにも忙しくしていたためか、国のご奉公での軍需工場などへ行ったという話は聞いたことがない。

こんにゃくを作っては売って、ほかの時間は書の勉強と同志との交流に明け暮れていた20歳前後の若者だった。

そうしてるうちに浅市は津軽弘前のとなり村の黒石の同志の成田という床屋に泊まったとき、そこの娘の『八重』という3つ年上の女性と知り合った。
父親の床屋の跡取りとして免許を取って22歳になりながらも嫁にも行かずに働いている娘だった。

「浅市さんは書道の先生になりたいという夢、是非かなえてほしいわ。八重子も応援いたします」
それがきっかけで手紙をやりとりするようになった。
(その八重はやがて私たち兄弟の母になる女性であった)
その手紙の文字は美しく、やはり書を習っていたようで、浅市とは違った書の上手さが感ぜられた。

二人共兄弟が戦地へ赴いていたので、戦地の状況を分析したりお互いの親を気遣った内容で、今のように惚れた腫れたといった浮ついた内容ではないと父も母も言ってた記憶があった。

東京の藍川先生から
「最近の浅市の書は身が入っておらぬ、戦時中で大変なのはわかるが、心ここにあらずといった書である。もっと気の入った書を書かぬならやめてしまえ!」といったお叱りの手紙を受け取ったこともあった。
たぶん八重との恋で勉強に身が入らなくなったのかもしれない。

しばらく会わないことにしよう・・・との約束もしたが、若い二人である。いったん火がついた想いはくすぶってはいてもすぐに再燃するのであった。

浅市は真冬でも汽車に乗っては弘前ちかくの駅に降り、そこから4里半もの田んぼの一本道をびっこをひきながら歩いた。横から吹き付ける津軽特有の地吹雪に何度も息が止まりそうになりながら、恋する乙女に会いたい一心で何度も訪ねていっては先方を驚かせた。

父親の成田彦蔵さんは『浅市さんに嫁にアゲたいのは山々だが、八重はうちの跡取り娘、うちに婿にきてくれるならいいが』と言ってたそうだ。
浅市は戦地へ行った兄との約束がある。

そうこうしてるうちに時は昭和20年の春を迎えた。(五章に続く)


私の屈辱の思い出・・・そして王羲之の書のことなど

2013年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

まず最初に、この前の記事、上品で香り高い王羲之の書 でご紹介した王羲之の黄庭経の出典を示しておきます。それは、http://homepage3.nifty.com/brush-art/J1034.html#kouteikyo2 です。

  • 黄庭経(こうていきょう) - 永和12年(356年):
  • 老子の養生訓で、羲之の小楷の中でも気韻が高い。真跡として唐に伝わったものは安史の乱で消失し、今日に見られるものは、これの臨本を模刻したもので、宋の拓本を最古とする。

    王 羲之(おう ぎし、303年 - 361年)は、中国東晋の政治家・書家。字は逸少

    詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8Bをご覧ください。

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    人間は誰でも長い一生の間に屈辱の体験をするものです。

    私は生来、字が極端に下手で小学校の習字の時間に毎回、男の先生に拳骨で殴られた屈辱の思い出があるのです。戦争中だったので男の先生は生徒をよく殴ったものです。

    その習字の先生はもっとゆっくり丁寧に書けと言います。ところがいくら丁寧に書いても字がゆがんでしまい形になりません。

    先生は私が言うことを聞かない反抗的で悪い奴だと腹を立てて毎回殴るのです。

    書の上手い先生にとっては、生まれつき悪筆が存在するというのが理解出来ず、腹を立てるのです。半分もっともな事です。

    長じて東京大学の恩師の松下幸雄先生へ博士論文を提出したときも屈辱の思いをしました。論文を読んだ先生が言いました。「この論文は論旨明快で内容は合格です。しかしそれにしても後藤君は悪筆ですね」。

    松下先生は生まれつきの悪筆の存在を知っていました。流石に大学の先生だと感心しましたが、このように面と向かって言われるとやはり屈辱ものです。しかし松下先生は一生私の面倒をみてくた心の温かい人でした。

    結婚したら家内がもっとゆっくり書けば上手になるとコンコンと諭します。これも小学校の習字の先生と同じで、頭が単純なのです。しかしその単純さで私は何度も救わたのですから感謝しています。

    最近、このブログで、水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、という連載記事を掲載しています。

    自分で綺麗な字を書けないので書には一種の憧れを持っています。

    そこで書家の水木りょう様へお願いして御父上の書家として生涯の物語を書いて貰っているのです。

    作品は絵画を見るように時々鑑賞しています。好きな書と嫌いな書があります。

    書は人格を表すと言いますから好きな人格と嫌いな人格があると言っても良いのです。

    しかし書は芸術ですから生まれつきの才能と、卓越した技巧が無ければ感動しません。

    前衛書も時々見ますが、中には古今東西の書の勉強もしていないような前衛書もあります。西洋の絵画でデッサンもろくに書けない絵描きが抽象画を描いたようなものでいけません。

    書と言えば王羲之の書が好きです。字の大きさが揃っていなかったり、間違いが訂正してあったりしますが上品な書です。香り高い書です。

    彼の経歴を読むとやはり権力欲にもおぼれなかった品格の高い人だったようです。

    「書家、間山陵風の生涯」、という連載記事もいよいよ佳境に入ってきたので、私の書に対する想いを書いてみました。

    まだ朝ですが、今日も暑くなりそうですね。

    皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

    下に蘭亭序を示します。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E4%BA%AD%E5%BA%8F

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