後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第七章、家庭の苦難と書塾の発展

2013年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

=====第七章、家庭の苦難と書塾の発展==============

多くの人の支援で始まった市内中心地、長島地域での生活は順調で、二年が経った11月に妻の八重が第三子(長女)を出産した。
念願の女の子に父浅市は『澄子』と命名した。しかしその澄子は一歳になる頃百日咳にかかり、近所の医師から県立病院に移された。
家事に困った浅市は、親戚に頼んで炊事洗濯料理などすべてやってもらった。

澄子の病は重く、医師からは治っても死ぬか生きるかのヤマ場ですが、助かっても脳に障害が生ずるおそれがありますと告げられた。
思わぬ苦難に、母つゑに相談したら毎日お題目を唱えなさいと言われた。朝晩祈り続けたその甲斐があったのか、澄子は無事助かった。

しかしそれから無理がたたった八重は、病気がちになった。
病み上がりの家事はきついので、経済的には余裕のあった浅市は、「あだこ=津軽ではお守り役をあだこ」当時中学を終わったばかりの女の子を住み込みで家事手伝いに雇った。二年くらいで別のあだこが入れ替わりやってきた。

私がまだ7~8歳のころ、母がよく倒れて苦しみ出すと父は「おい!すぐに婆ちゃんば呼んでこいへ!」
私はすぐ猛スピードで走り抜けて父の実家に行ったものだった。
ある日は近所の5人くらいのいじめっ子が通せんぼするときもあった。しかし泣き虫の私でもその時ばかりは母の命に関わるので、ものすごい形相で体当たり突破して婆ちゃんの元へ走ったものだった。

婆ちゃんは「おしおし、今いぐからなぁ」と頭を撫でてくれた。
神様のように思えた祖母だった。
母のお題目を聞いてさすられると20分ほどで嘘のように落ち着く母であった。

一方水茎書道塾は弟子は増える一方で、父(陵風)はあちこちの展覧会に出品しては団体賞や個人賞など取る様になった。
また書友で作った会派で『北門書道』や前衛で有名だった『奎星』(上田桑鳩)の競書に出品、学生は翠軒流の『星雲』などへ出した。
陵風は書家として若手のホープとして期待された。陵風一派の作品が機関紙の写真版を半分独占することもあって、他団体から妨害を受けることもあったそうだ。

本家の兄の沢一の友人に蘭山という書家がいて、「どうだ俺と一緒に中央へ行かないか?」と誘われたそうだ。
しかし断ったがために、その影響がしばらくあったそうだ。蘭山氏はその後青森県の書の重鎮としての地位を築いてゆく。

妻、八重は毎日紙に埋もれている夫に懸命に仕えていたが、すぐに妊娠してしまう。(当時男性に避妊という判断はなかったのだろうか、特に父にはなかったようだ)。

第四子の間までに何度も中絶手術をしたそうだ。
それが後の母の健康に深く傷となって残っている。
だから私たち子供は母が一年の半分は床に伏している母しか思い出せない。

一方書塾に、ある少年が入った。眼が精悍で色黒で、泣き虫の私には怖そうな先輩だった。
でも意外に私を優しく守ってくれる少年だった。名は工藤隆。

 ある習字のお稽古中、父がいきなり怒って彼に罵声を上げて鬼のようになり、私らを怒るように彼を何度も叩いた。
彼は泣いてごめんなさい!と謝った。
その晩に彼の叔母が訪ねてきて、「叱ってくれて感謝します、言う事を聞かない子で、これからも親のように叱って下さい」と言って帰った。
隆君は母を亡くして福島から叔母を頼って単身青森に来たのだった。父のような存在の習字の先生にますます慕うようになって、書道の腕を上げていった。
後に彼は世界を放浪しアメリカで画家として名声をあげ『工藤村正』として現在も活躍している。
経歴には恩師はただ一人『間山陵風』と書いてある。

その後偉くなっても何度か帰国すると陵風に会いにきて、真っ黒な顔で侍のような瞳を輝かせて武勇伝を語っては帰っていった。
父が亡くなってからも、彼からはたまに連絡があり、父の作品を貸してくれという依頼がある。
とくに彼が好きな作品は父の『轟による』だった。

その後、陵風は街の書道の先生と提携して機関紙を作ったり、毎年のように社中展を開き、北門書道でお世話になった。
宮川松子先生を顧問にして、他団体の会主の賛助出品をもらったり、県展や市民展にも力を尽くし審査員として活躍するようになった。

文化的な活躍が多いために、政治運動は疎くなり一時、養正会や国柱会からは批判されたことも多々あった。
道場をつかって決起大会などあると、陵風は同志の先輩に叩かれたこともあって、民謡の兄の雲龍が止めたこともしばしばだった。その後文化事業の成果を認めるようになり、国柱会も口をはさまずに一部の会員は支援してくれるようになった。
それらを見て育った私たち兄弟は、国柱会を良く思うはずはありません。(第八章へ続く)


老人ホームで活発に絵を描いている方をご紹介します。

2013年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

めいこ さんは89歳でホームに入っています。しかしホームに入る前とぜんぜん変わらないで、活発に絵画を制作して「80歳の生活」というブログに楽しい文章とともに発表していらっしゃいます。

以前もその絵画をこのブログで何度もご紹介してきました。今日は久しぶりに最近作を以下にご紹介いたします。

 

出典は、http://www.geocities.jp/hyoutannjima0/index.htm です。

「海外旅行」

蒙古に行っていると聞いていた三十歳の、五人の孫娘中、四番目の子が、小さい羊のぬいぐるみを持ってホームにやってきた。土地の手工芸品で白いフエルトをかがって作られている。高校時代の友人三人と行ったそうで、私の若い時代には考えもしなかった場所だ。

      私が最初に海外にいったのは、昭和五十一年の頃、それまで一般の人には難しかった海外旅行が解禁となり、役所の仲間が早速、団体旅行を計画した。約百人、駆け足で、ヨーロッパの主な都市を回った。職場が裁判所なので英国の裁判所を訪問してお話を伺った。一番印象に残ったのはパリの凱旋門付近の、歴史のある街並み、流石と圧倒された。レマン湖の綺麗な白鳥も眼にのこる。英国ではケンジントンホテルといいうところに泊まったが、古めかしいホテルだったので、今あるかどうか。その後、夫とハワイ、カナダとコロンビアに行った。



私が六十六歳の時、夫がなくなってからは、友人とアメリカ、エジプトとトルコ、東南アジア、墨絵の展覧会のために行ったロマンチック街道、ウイーン。
      旅行していると、私は、同年配の人達と比べて体力の無いのが判った。旅行会社が計画するコースどおりに参加すると疲れる。夜の、照明を受けたナイヤガラの滝や、夜の水中宮殿は、パスして宿にいた。一日がかりのアメリカのヨセミテ公園は自信がなく二人で留守番し、夜遅く元気に帰ってきた人達から話を羨ましく聞いた。

蚤の市へ行く途中に少し、ふらつき、添乗員に、私一人をタクシーに乗せてもらい、宿泊ホテルに戻った。鍵をかけ、べッドで休んでいると、とつぜん、大きな黒人のボーイが部屋の中を歩いているのでギヨッとした。週刊誌を取替えにきたと動作で示した。

      七十歳のとき、友人とスペインとポルトガルに行くツアーに申し込んだ。海外旅行は八回目で、これで最後と決め、三歳年上の元気な友人と、今まで乗ったことのないビジネスクラスで頼んだ。かかりつけの医者の、OKも貰った。しかし、出発日の十二日前、私が心筋梗塞をおこし、急遽、近くの大学病院に入院、手術した。外国の不便な田舎道で発病したら助からなかっただろう。しばらくしてご近所の奥様が、アンコールワットから白木の箱で帰国されたので、自分は運が良かったのだと思った。

今、私たちの時代には殆ど聞くことの少なかったマチュピチとか、イエローローストーンなどの名を聞く。時代がずんずん変わってくる。

=======めいこ さんの自己紹介=============

 

 

1923(大正12)年11月20日生
女子大時代(昭和19年)学徒動員で電波関係の仕事をしましたが、それがきっかけで、老年になってあまり抵抗無くパソコンを触るようになりました。技術的に難しいことは一切解かりません。自分の出来る範囲でH.Pを作っています。続けているうちに日記のようになってきました。現在、体力的にやっとですが、エッセイと水彩画の教室に行っています。


私の飢餓体験・・・今朝、古い食品をはじめて捨てる決心をした

2013年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

高齢な日本人なら戦前、戦後に食糧難にあった経験を持ってます。

食料の補給がなかった戦地の軍隊だけでなく、本土に住んでいた一般人までひどい食糧難にあったのです。

その体験をした人は食品を捨てることが出来ないのです。捨てることに罪悪感を感じるのです。南方の島々で食料が絶えて死んでいった兵隊さんたちのことを思い出すのです。

ですから我が家の冷凍庫には食べない古い食品が溜まっています。しかし捨てることが出来ません

その一方でスーパーやコンビニ店では賞味期限のきれた食品を毎日、大量に捨てています。一部は家畜の飼料にするらしいのですが、兎に角捨ててしまいます。

随分と以前から日本はそんな時代になっているのです。そこで今朝。家内と相談して冷凍庫の古い食品を捨てる決心をしました。まだ腐っていない食品を捨てるのです。それは罪悪です。

そこでその罪滅ぼしに戦前、戦後の飢餓体験を書いて遺したいと思います。

経済の高度成長が始まった1970年頃以後、日本から「食糧難」ということが無くなりました。しかし1943年頃から1960年頃までは食べることに困った人々が沢山いたのです。

今日は特に酷かった1944年から1951年の頃までの私自身の体験を書いてみました。

少年のころ過ごした仙台では昭和19年ころから戦後の昭和26年頃まで食糧難の時代でした。仙台だけでなく全国の都市は全て食糧難に遭遇したのです。特に1944年、45年、46年には餓死者も沢山出ました。しかし、食糧難の時代も遥か昔になり、60年近くなると日本人は全て忘れてしまったようです。最近は、誰も食糧難のことは話さなくなったのです。 

昭和19年になると米の配給も不足し、お粥や大根の葉を刻みこんだご飯になりました。サツマイモやジャガイモの蒸かしたものに塩を付けて昼食にするのです。庭でとれたカボチャを夜のご飯へ混ぜて炊きます。肉などは何ケ月も見たことがありません。だだし、仙台は塩釜漁港に近いので腐った臭いのする激塩のタラ、ホッケ、ニシン、イワシ、が一品だけ何日か間をおいて魚屋に並びました。三陸沖で取れるクジラ肉も並ぶ日もありました。製氷機が無いのですべて塩を多量に使った塩漬けです。それでも腐り、凄い臭いがします。今書きながら臭いの酷さと塩辛さを思い出して生唾がほとばしります。そのせいで塩味の濃い料理が好きになりました。臭い魚は腐っているのではなく、発酵している場合が多いので食べられるのです。 

そんな食生活も敗戦の8月15日の後に一変しました。悪くなったのです。社会の秩序がなくなると食料の輸送や流通経路が途絶し、店からは食料関係の商品が消えてしまったのです。毎日、食べるものが無い日が続きました。 

ひもじさの余り、友達に教わったアカザ、スカンポ、ハコベ、オオバコなどの葉や茎を野山から採ってきて醤油で煮付けたり、おひたしにして食べました。そんなものでは空腹はおさまりません。米を精米するとき出る糠に少しの小麦粉を混ぜてフライパンで焼いたパンも食べたものです。 

しかし、不味い物は喉につかえるのです。赤い高粱もゆでて食べました。

戦後しばらくして進駐軍の食糧援助で軍隊用の豆のケチャップ煮の大きな缶詰めが配給になりました。不味くはないし、栄養があって元気が少し出たものです。それに加えて、精製していない赤っぽい砂糖が多量に配給になったのです。米の配給の代用品です。カルメ焼きという玉杓子のような形の銅の小鍋で砂糖を溶かし、溶けたら重曹を付けた棒でかき回し、冷やすと、フックラと膨れ上がった砂糖菓子が出来るのです。子供でも面白いように出来、食べるとサクサクとして実に美味しいのです。しかしいくら食べても米のご飯の代わりにはならないで、すぐ飽きます。人間は砂糖だけでは生きて行けないという体験をしました。 

肉に餓えていたので、何処の家でも鶏やウサギを飼っています。毎日2個の鶏卵を5人の家族が分けて食べました。卵を産まなくなったら殺して鶏肉を食べ、ウサギも殺して食べるのです。大人が殺して皮を剥いで、肉を鍋にするのですが、美味しくないのです。いくら食糧難でも、可愛がっていた鶏やウサギを食べて美味しいはずはありません。 

1960年にアメリカへ留学したとき、毎日肉が好きなだけ食べられることに吃驚した。それは大きなショックでした。 

こんな国と戦争すれば負けるのが道理だと胃袋が教えてくれたのです。 

現在でもレストランやパーティで綺麗に盛り付けられた肉料理が出ると、その有難さに思わず頭が垂れるのです。そして、ひもじかった仙台での日々が、悲しい追憶として思い出されるのです。

敗戦には必ず飢餓体験が伴なうのです。後年、親しくなったドイツ人に私の飢餓体験を話しました。ドイツも全く同じだったと悲しそうに話していました。

そんな時代も昔のことになり忘れ去られてしまいました。

しかしどんな時代になっても食べ物があることに感謝して、生き物の命を戴くことに感謝し、それを作った人々へ感謝することは人間が幸せになるためにも重要なことです。

食事の前に私は声をあげて祈ります。「主、ねがわくば我らが食せんとする、このたまものを祝したまえ。父と子と聖霊の み名によってアーメン」と唱え十字を切ります。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

下に挿絵がわりに京王フローラルガーゼンで撮った花園の写真をお送りいたします。

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