=====第七章、家庭の苦難と書塾の発展==============
多くの人の支援で始まった市内中心地、長島地域での生活は順調で、二年が経った11月に妻の八重が第三子(長女)を出産した。
念願の女の子に父浅市は『澄子』と命名した。しかしその澄子は一歳になる頃百日咳にかかり、近所の医師から県立病院に移された。
家事に困った浅市は、親戚に頼んで炊事洗濯料理などすべてやってもらった。
澄子の病は重く、医師からは治っても死ぬか生きるかのヤマ場ですが、助かっても脳に障害が生ずるおそれがありますと告げられた。
思わぬ苦難に、母つゑに相談したら毎日お題目を唱えなさいと言われた。朝晩祈り続けたその甲斐があったのか、澄子は無事助かった。
しかしそれから無理がたたった八重は、病気がちになった。
病み上がりの家事はきついので、経済的には余裕のあった浅市は、「あだこ=津軽ではお守り役をあだこ」当時中学を終わったばかりの女の子を住み込みで家事手伝いに雇った。二年くらいで別のあだこが入れ替わりやってきた。
私がまだ7~8歳のころ、母がよく倒れて苦しみ出すと父は「おい!すぐに婆ちゃんば呼んでこいへ!」
私はすぐ猛スピードで走り抜けて父の実家に行ったものだった。
ある日は近所の5人くらいのいじめっ子が通せんぼするときもあった。しかし泣き虫の私でもその時ばかりは母の命に関わるので、ものすごい形相で体当たり突破して婆ちゃんの元へ走ったものだった。
婆ちゃんは「おしおし、今いぐからなぁ」と頭を撫でてくれた。
神様のように思えた祖母だった。
母のお題目を聞いてさすられると20分ほどで嘘のように落ち着く母であった。
一方水茎書道塾は弟子は増える一方で、父(陵風)はあちこちの展覧会に出品しては団体賞や個人賞など取る様になった。
また書友で作った会派で『北門書道』や前衛で有名だった『奎星』(上田桑鳩)の競書に出品、学生は翠軒流の『星雲』などへ出した。
陵風は書家として若手のホープとして期待された。陵風一派の作品が機関紙の写真版を半分独占することもあって、他団体から妨害を受けることもあったそうだ。
本家の兄の沢一の友人に蘭山という書家がいて、「どうだ俺と一緒に中央へ行かないか?」と誘われたそうだ。
しかし断ったがために、その影響がしばらくあったそうだ。蘭山氏はその後青森県の書の重鎮としての地位を築いてゆく。
妻、八重は毎日紙に埋もれている夫に懸命に仕えていたが、すぐに妊娠してしまう。(当時男性に避妊という判断はなかったのだろうか、特に父にはなかったようだ)。
第四子の間までに何度も中絶手術をしたそうだ。
それが後の母の健康に深く傷となって残っている。
だから私たち子供は母が一年の半分は床に伏している母しか思い出せない。
一方書塾に、ある少年が入った。眼が精悍で色黒で、泣き虫の私には怖そうな先輩だった。
でも意外に私を優しく守ってくれる少年だった。名は工藤隆。
ある習字のお稽古中、父がいきなり怒って彼に罵声を上げて鬼のようになり、私らを怒るように彼を何度も叩いた。
彼は泣いてごめんなさい!と謝った。
その晩に彼の叔母が訪ねてきて、「叱ってくれて感謝します、言う事を聞かない子で、これからも親のように叱って下さい」と言って帰った。
隆君は母を亡くして福島から叔母を頼って単身青森に来たのだった。父のような存在の習字の先生にますます慕うようになって、書道の腕を上げていった。
後に彼は世界を放浪しアメリカで画家として名声をあげ『工藤村正』として現在も活躍している。
経歴には恩師はただ一人『間山陵風』と書いてある。
その後偉くなっても何度か帰国すると陵風に会いにきて、真っ黒な顔で侍のような瞳を輝かせて武勇伝を語っては帰っていった。
父が亡くなってからも、彼からはたまに連絡があり、父の作品を貸してくれという依頼がある。
とくに彼が好きな作品は父の『轟による』だった。
その後、陵風は街の書道の先生と提携して機関紙を作ったり、毎年のように社中展を開き、北門書道でお世話になった。
宮川松子先生を顧問にして、他団体の会主の賛助出品をもらったり、県展や市民展にも力を尽くし審査員として活躍するようになった。
文化的な活躍が多いために、政治運動は疎くなり一時、養正会や国柱会からは批判されたことも多々あった。
道場をつかって決起大会などあると、陵風は同志の先輩に叩かれたこともあって、民謡の兄の雲龍が止めたこともしばしばだった。その後文化事業の成果を認めるようになり、国柱会も口をはさまずに一部の会員は支援してくれるようになった。
それらを見て育った私たち兄弟は、国柱会を良く思うはずはありません。(第八章へ続く)