後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

猛暑の日なので涼しい海上からの写真をお送りいたします

2013年07月07日 | 写真

昨日、梅雨が明けたと気象庁が発表しました。今日は朝から庭の寒暖計が36度を示しています。

10時のミサへ行って、昼過ぎスーパーに買い物に行きました。それ以外は一歩も外へ出ません。

兎に角、ものすごく蒸し暑いのです。いよいよ本格的な夏になったようです。

皆様の住んでいらっしゃる所は如何でしょうか?朝の天気図を見ると全国暑い夏日のようです。

そこで先日の夕方、船上から撮った涼しい東京湾の夜景の写真をお送りいたします。

7月1日の夕方でしたが肌寒いくらい涼しい風が吹いていました。

写真をご覧になって涼しい気分になった下さい。Img_8871
芝浦の岸壁のコンテナ・ヤードです。コンテナ船が横着けになって大きなコンテナを昼夜を通して積み下ろししていました。貨物用の岸壁も変わったものです。

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芝浦を過ぎると上の写真のようにビル街が見えてきます。窓窓の明かりが海面に写って、涼風が吹いていました。

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上の写真の船は東京湾をクルーズしながらディナーを楽しむシンフォニー号です。

 

発着時間や料金は、http://www.symphony-cruise.co.jp/party/private/menu/dinner02.htmlにあります。

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レインボー・ブリッジをくぐると間もなく晴海客船センターに着岸します。橋の下のはるか向うに古い東京タワーが見えてきます。

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晴海客船センターの岸壁に近いところで、上の写真のように大きな消火艇が2隻も水柱を数本高く上げて「ふじ丸」の帰港を歓迎していました。

 

何かもったいないようですが、消火訓練もかねているなのかも知れません。水柱を見ていると寒い気分になったものです。

 

明日も、明後日も、そしてこれから9月の中旬まで猛暑の日々がえんえんと続きます。しかし体は次第に暑さになれるので今日が一番暑く感じる日と思います。

 

どうぞ皆様も熱中症にならないでお元気に夏の日々をお楽しみ下さい。(終わり)


明治神宮外苑での甲子園高校野球東京大会の開会式と学徒動員行進の光景

2013年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、神宮球場で甲子園高校野球大会の東京予選大会の開会式がありました。

一番上の孫が、ある都立高校の三塁手として出場するのです。私は爺バカぶりを発揮して暑いなかを独りで行って来ました。

開会式は出場する273の高校の選手達の整然とした分列行進から始まりました。広大な神宮球場の外野部分に、下の写真のように、273高校の選手が整列したところで開会宣言がありました。

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全員が入場するまでに30分くらいかかりました。

ブラスバンドの勇壮な演奏に合わせて選手たちが行進してくると、何故か胸が熱くなってしまいます。ついきのうまでヨチヨチ歩きをしていた孫が歩調をとって行進しているのです。下はその様子を示す写真です。

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273の学校の選手達約4000人の若者が整然と行進する姿を見ただけで感動します。

そして始球式は時間通りヘリコプターが飛んできて、旗にボールを繋いだものを落下して終わりました。

そして一人の女子高校生が下の写真のように君が代を歌います。

若い美しい声です。

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全員が起立し、脱帽し、小さな声で唱和します。

私はたまらなくなりました。急に70年前の神宮競技場での学徒出陣壮行会の光景を思い出したのです。その光景は戦後の映画館で何度も見て、心に焼き付いている悲壮な光景なのです。下にその写真を示します。

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この壮行会は昭和18年の10月21日の雨の日に行われました。

屋根のついている高い壇上に立っているのが東条英機首相です。彼は戦後、A級戦犯として処刑されました。多くの人々は当然と思いました。

降りしきる雨の中の分列行進の様子を下の写真で示します。

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当時の観客席には東京の女学校や中学校から動員された生徒が立っていました。大学生の兄たちの出征を勇気づけるためです。彼等、彼女たちがどんな思いで見送ったかは、下の写真からご想像下さい。

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昨日の観客席全員の明るい雰囲気ときらびやかさにとは正反対の悲しい雰囲気です。

今日は日曜日です。これからミサに行きます。

二度と戦争が起きないようにお祈りいたします。

そして夏の高校野球に参加する全国の選手たちの健康をお祈りいたします。

皆様のご健康と平安をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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学徒出陣の動画は、http://www.youtube.com/watch?v=cGDN8LBawoMにあります。

以下の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%87%BA%E9%99%A3 です。

1943年(昭和18年)10月21日、東京都の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施された。壮行会の様子は社団法人日本放送協会(NHK)が2時間半にわたり実況中継(アナウンサー:志村正順)を行い、また映画「学徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われた。秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々(引き続き徴兵猶予された理工系学部生、中等学校(旧制)生徒、女学徒などが計96校、約5万名が学校ごとに集められた)の前で東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の各大学・専門学校からの出陣学徒(東京帝国大学以下計77校)の入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍戸山学校軍楽隊)、宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戦詔書の奉読、東條首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、海ゆかばの斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされる。出陣学徒は学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。

壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)12月に陸軍へ入営あるいは海軍へ入団した。入営時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったが、戦況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出した。1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にかけて、戦局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れた。

全国で学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。ただし、当時の文部省の資料によれば当時の高等教育機関就学率(大学・専門学校・旧制高等学校などの総計)は5%以下であり、さらに理工系学生は引き続き徴兵猶予されたため学徒兵の実数は決して多くなかった。

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